restart letters ー後日談ー
九条 咲夜
山本 龍介
プロローグ
スマホから流れる聞き慣れた音楽。画面には七時のアラームが表示されていた。カーテンの隙間からは眩いばかりの朝日。痛いほど目に染みて思わず目を閉じてしまった。
──ああ、なんて気怠い朝なんだろうか。
だが、それでも確かに九条咲也という人間はこれを望んでいた。家を出ると決意してから三年。今でもふとした時に噛み締めている。それにしても眩しい光に、日当たりの悪い部屋に引っ越したくなってしまった。
「三年・・・・・・」
重たい体をなんとか起こし、スマホの充電器を引き抜く。アラームのスヌーズを止め、ホーム画面に戻すとラインに三件の未読通知。開けばそれは見知らぬ相手だった。いや、正確には知っている。今の今まで忘れていた高校時代のクラスメイトだ。
「どこから俺のライン・・・・・・」
不審に思いつつぼんやりとメッセージを読んでいると、最後に「起きたら返信くれな!」と一言。既読を付けてしまった以上無視するのも気が引けた。致し方なく数言返信。ラインのやり取りが嫌いな咲也にとって朝からこれほどの苦行はなかった。それに加えて着信までくるなんて。滅多に聴く機会のない音楽が耳障りで今すぐ『通話終了』にスライドしてやりたかった。だがそれはそれでまた面倒を増やすことになる気がしてこれまた致し方なく逆にスライド。とっとと終わらせて平穏を取り戻すのだ。
「もしもし」
『おー、もしもし! 九条、元気してたか!』
まるで自分のことを覚えていて当然のような口振りに早速出たことを後悔した。だがこれも辛抱。大人しく相手の話に身を任せ最短ルートで通話を終わらせようと試みる。
『で、だ。肝心の本題なんだけど。なんと! 龍介が帰ってくるそうでーーす! どうだ、驚いただろ?』
「――――」
『・・・・・・あれ、もしもし?』
「あっそ。もう家出る時間だから切る」
『え、あ、ちょ――』
相手が何かを言うよりも早く通話終了のボタンを押す。こんなくだらないことのために貴重な朝を浪費するわけにはいかない。そう、実にくだらないこと。
いつか捨てた執着がそこにあった。
1
ボストンバッグを手に懐かしい坂道を下る。旅に出ると決めてから数年。なんら変わり映えのしない風景に嬉しいような、悲しいような。坂を下るとそこには龍介が暮らしていた家があった。数年前とそう外観が変わらないのは、隣に住んでいるおばあちゃんが手入れをしていてくれていたからだろう。玄関の前に立つと急に帰ってきた実感が湧いてきて胸が熱くなった。
「ただいまさん」
まずは大きく深呼吸。日本様式らしい木の匂いで、それは今も昔も変わらないものだった。喜ばしさのままに靴を脱いで居間へ。荷物を置いて家の中を歩き回った。部屋はやはり隣のおばあちゃんが定期的に掃除をしていてくれたおかげで綺麗なまま保たれていた。久方ぶりの家を満喫していると、ピンポーンと来訪者を報せる鐘が鳴った。
「はいよ」
急いで戸を開けると、そこには思いもよらぬ人物が立っていた。思わず「え」なんて言ってしまうと、相手はみるみる機嫌を悪くして眉間に皺を寄せる。
「何だよ、俺がここにいたらおかしいのか?」
「いや、そういうわけじゃ・・・・・・」
九条咲也。
彼は龍介にとって高校時代の友人、のような関係の一人。だがその言葉の通りあくまでも『のような』という存在であり、記憶にある範疇では突然家に来るような仲では決してなかったはずだった。
急な展開に動揺していると、痺れを切らした咲也が玄関に上がり込み靴を脱ぎ始める。
「お前には客人を立たせ続ける趣味でもあるワケ?」
「え、あ」
「上がるぜ。数年いなかったんだから、見られて困るようなもんないだろ?」
「まあ、別にいいんだけどさ」
そんなことよりも、昔より妙に饒舌さが増している咲也に違和感を覚えていた。
「突っ立ってないで茶ぐらい出せば? ああ、茶請けは期待してないからいらないぜ」
なんとなくだが、数年経って彼も何かが変わったのだろう。それがいいものなのかは判断しかねるが、不機嫌さや言葉の棘は更に鋭さを増したような気がした。
「さっき帰ってきた人間に対して随分ご無体じゃないか?」
「なんだよ」
「いやあ、咲也は相変わらずだなあって」
「フン・・・・・・相変わらず口煩いヤツ」
そこで会話に飽きたのかそれ以降は口を開くこともなく、案内されるがまま居間へと向かった。それに対して龍介は別段いたたまれなくなったわけでもないが、久しぶりの再会にあれ以上の会話がないというのも寂しく感じたようで、なんとなく気になったことを口にした。
「家には寄らなかったのか?」
「はあ?」
「いや、随分荷物が多いから寄らずに来たのかなってさ」
「・・・・・・はあ、三歩歩いたら忘れる鳥頭のお前に、仕方なく、この俺が教えてやるけど。俺は家を出たの」
「あ・・・・・・」
「思い出したか?」
「あー、なんか、ごめん」
「思ってもないくせに謝るなよ。まだその癖治ってないんだな」
「アハハ、咲也は相変わらずキレキレだな」
咲也が座ったのを確認するとお茶を淹れに台所へと消える。
一方居間に残された咲也は台所の奥から聞こえてくる音には気にも留めず部屋の中をざっと眺める。思ったより家具はなく生活感のない部屋。埃もなく綺麗で清潔感はあった。
「部屋、随分綺麗じゃないか」
慣れた手つきで作業をしながら応える。数年空けていたとはいえ、物の場所は覚えているらしい。
「隣に世話焼きなばあちゃんが住んでるんだ。俺がいない間、時々掃除に来てくれてたんだと思う」
「フ、類は友を呼ぶってことだね」
相手に聞こえないよう小さな声で囁けば、それはやかんの沸く音で掻き消されたようだった。
「ん?」
「何も。ほら、早く出せよ。茶は熱い内が一番だろ?」
それからほんの少し経つと、湯呑を二つお盆に乗せて龍介が現れた。渡された湯呑からは熱々と湯気が立っていて香りを運んでくる。
まあ及第点だったのだろう、咲也にしては珍しく無言で茶を啜っていた。
「ま、いいんじゃない? この家にしては」
「お口に合うようでなによりです」
咲也は口が悪いために勘違いされやすいが、自分が認めたモノについては素直に称賛を贈る。その時の笑顔とまでいかない微笑が龍介は割と好きだった。
それからはお茶を飲みながら数時間、他愛のない話をした。旅先で出会った人の話や使えない大学教授の話。ほんとに些細なことだった。でも、それがお互いにとって一番なんだと強く感じていた。
そうしている内に、いつの間にか部屋の中は燈色一色に染まり、窓の外を見ると空が夕刻を告げていた。
「さて、部屋に案内してもらおうか」
「え?」
「なに間の抜けた顔してんだよ。泊まるんだから当然だろ?」
「と、突然だなあ~!」
「最初に話した時点で察せよ。全く鈍感だね」
龍介の事情などお構いなしに荷物を手に立ち上がる。こうなっては諦めた方が何かと面倒事が減るのを龍介はよく知っていた。
観念していくつかある空き部屋を提案し選んでもらう。咲也が選んだのは奥の静かな部屋。裏庭に近く夜は虫の鳴き声ぐらいしか聞こえない良い場所だった。
「咲也、夜どうする? せっかくだし外で」
「ここでいい。外ったってこの辺りじゃロクな店がないだろ。煩くてかなわない」
そう話しながら簡易的に荷物を整理。キリのいいところで部屋から出てくるなり再び居間へと歩き始めた。
「それに、ご自慢の手料理を披露してもらわないとなあ?」
「それはいいけど、材料買ってこないとな」
「へえ」
「え、咲也は?」
「俺はもてなされる側だろ?」
「好みとかさあ・・・・・・」
「まさかわからないとか言うつもりじゃないだろうなあ?」
「・・・・・・・・・・・・まあ、わかるけど」
これでも付き合いは長い。不服ながらも一人買い物袋を取り出し近所のスーパーへ向かう。
龍介が帰ってきたのは陽が家の向こうに飲み込まれていく頃だった。既に部屋には電気がついており龍介はいそいそと玄関の戸を開ける。食材の入った袋を手に提げキッチンへ向かうと、途中の居間には退屈そうにテレビを見ている咲也がいた。龍介が帰ってきたことになど気付いていなく、それをいいことに気付かれないようキッチンへと向かう。
数年ぶりのエプロンに少しばかり気合が入った。予期していたことではないが客人であることに変わりはない。龍介のお人好しスイッチ、というよりかは妙なこだわりが発揮される。一度もてなすと決めたらとことんもてなすのだ。
そう決めてから約二時間弱。ようやっと夕食が完成。外は既に暗くなっていた。料理の乗った皿を持って居間へ行くと飽きてしまったのだろうか、テレビはうんともすんとも発しない。そして不機嫌を身に纏った咲也のいかにもな目線。
「遅い」
人差し指で机を叩き催促。もてなすとは決めたがやはり最初の内に考え直すべきだったと小さく苦笑い。どうにもならない龍介は食卓に料理を並べ咲也の向かいに座る。丁寧に畳まれたエプロンから彼の几帳面さが伺えた。
「召し上がれ」
「・・・・・・いただきます」
自分を意に介さない龍介の素振りに苛立ち半分、懐かしさ半分の咲也。己の中の言い得ぬ感情に苛立ちを覚えつつもまずはひと口。さすがは元地主の御曹司といったところか。絶縁したとはいえ身についたマナーはしっかりしており、出されたものをしっかりと味わって食べていた。
一方、龍介は白米を口に運びつつ第一声を待つ。聞く必要はないとわかっているからか必要以上に気は回さない。箸の音だけが聞こえる静かな食卓だった。
「まあまあだね」
そう一言。目も合わせず黙々と皿の上の料理を口に運んでいく。表情からは感情が一切読み取れないが彼の箸の進み具合がすべてを物語っていた。それがわかる龍介だからこそ彼はそれ以上を語らない。数年経った今でも、それがお互いの付き合い方だった。
「ご馳走様」
「お粗末様でした」
決して口数は多くなかったが、それでもこの二人には十分で有意義な時間だった。それがまた咲也は苛立たしいらしく、妙に不機嫌を撒き散らし龍介を困らせていた。
「風呂、沸かしてくるから」
「ああ、好きにしなよ」
綺麗に完食された皿を満足気に眺め、台所へ運び手早く洗ってすぐにお風呂の準備。そこで浴室が綺麗なことに気付き、お隣のお祖母ちゃんがいかに家を綺麗にしてくれていたのかを実感した。給湯器のスイッチを押し浴槽に蓋をする。
一方咲也は再びテレビをつけ、興味もないバラエティー番組をただただ眺めているだけだった。
「咲也ってあんまネットとか見ないタイプ?」
「くだらないだろ。興味云々の以前の話さ」
「ふうん」
「そっちこそ。まあ、ネットは圏外か」
「まあそうだな。ニュースとかは電波あるとこでは見るようにしてるけど、それ以外はからっきしだな。SNSとかはよくわかんないし」
「アナログこの上ないな」
「咲也だってそう大差ないだろ?」
「俺は分かった上で使ってないの。わかるか? この違い」
「む」
彼の言いようが癪に障り黙り込むも、肝心の咲也はというとそれが心底面白かったようで珍しく笑っていた。どうにも龍介はああいう笑顔に弱い。というより、なんとなくそれでよかったのだ。
そうした龍介の仕草に何を思ったのか一瞬で不機嫌な表情に戻り、視線をテレビの方に動かした。そこからは特に何もなく無言の二人。龍介はなにとなく茶を淹れしっかりと二人分運んでくる。咲也も咲也でなんだかんだ出されたものは飲んでしまうのか目の前に置かれた茶を啜り、これまた不機嫌そうに飲み干した。
そうしている内に給湯器のピーピーという音が鳴り響き、お湯が貯まったことを報せてくる。
「お先」
「おう、まあ、いいけどさ・・・・・・なんていうか、こう、遠慮的なものは・・・・・・」
「客人なんだけど?」
「そういうとこなんだよなあ」
「なんだよ小煩いヤツだな」
「あーはいはい。どうぞどうぞ、入ってきてください」
そう言われカチンとくるも結局一番風呂は咲也が入ることに。
スタスタと浴室へ向かう彼をよそに龍介はタオルを用意して脱衣所へ向かった。
「咲也」
声をかけるとシャワー音が止まり「何だよ」と無機質な一言。
「タオル、置いておくぞ」
「ああ」
御役御免、と脱衣所から去ろうとするも感情が読み取れない無機質な声に呼び止められた。
「なあ」
「ん?」
「今日、猫が死んでたんだ」
「猫飼ってたのか?」
「野良だよ。道端にさ」
まだシャワーは流れない。わしゃわしゃと頭を洗う音だけが響いていた。
「どうして猫は死んでたと思う?」
そう言うと浴室にシャワーの音が響いた。龍介は答えたのか、それとも何も言えなかったのか。お湯の流れる音に全て呑まれるだけだった。
それから約四十分後、居間にタオルドライを済ませた咲也が顔を覗かせた。それに気づいた龍介は浴室へ向かおうと、どことなく重い気がする腰を上げた時、ふと口から言葉が零れ出た。
「さっきの」
「は?」
「さっきの質問。多分、熱中症なんじゃないか?」
「・・・・・・そう思った訳は?」
「んー・・・・・・どうしてだろうな」
無意識に出た言葉に意味を付けようと、なんとなく、ぱっと浮かんだことを口にした。
「暑かったから。ああ、帰ってきて吃驚したんだよ。こんなに暑いなんて思ってもなかったし」
「・・・・・・轢かれた、とか他の動物にやられた、とか」
「そうかもしれないな」
「猫は自分勝手さ」
立ったまま、俯いたまま、咲也はそう言った。居間に入るわけでもなく、でも自室に戻ることもしないまま。龍介からは彼の顔がよく見えない。何を考えているのかも、いつも以上にわからなかった。
「自由気ままっていうか・・・・・・気分屋だよな」
「それは、自業自得って言うのか?」
「猫に自業自得って・・・・・・」
「猫は良くて、人間は駄目なんて、全くおかしな話さ」
「良いも悪いもないと思うけど」
彼の真意が見えない。いつも。今日に限った話ではないのだ。でも、なんとなく、どことなく、彼自身を責めているように聞こえた。
「・・・・・・ハ、そうさ、猫だからね」
「猫、そのまま?」
「弔い方も知らないのに触れるわけないだろ?」
「近く?」
「は?」
「ここに来る途中だったんだろ」
「・・・・・・ああ。はあ・・・・・・そうだよ」
「うん」
「・・・・・・馬鹿々々しい」
「付き合わなくていいからな」
「元からそのつもりさ」
そう吐き捨て自室へ戻っていく咲也をほんの少しだけ見つめて龍介も浴室へと向かう。猫は、近い内お墓を立ててあげよう、そうぼんやりと考えていた。
龍介が風呂から上がったのはそれから約三十分後。身なりには最低限しか頓着しないようでタオルドライを済ませただけで髪はボサボサだった。居間に咲也の姿はなく自室に戻ったきりそのまま寝てしまったのだろうかと、気付けば彼の部屋の前に立っていた。
「・・・・・・・・・・・・」
どうすることもできずに一分、二分と時間が過ぎていった。自分はどうしてしまったのだろう、そう思い居間へと踵を返したその時、後ろから戸の開く音が聞こえてきた。
「なんだよ」
「え」
振り返ればもうすっかり寝る準備万端な咲也が立っていた。どういうタイミングなんだ、と訝しげな顔をしていると相手もそう思っているようで眉間により一層皺を寄せた。
「障子に影が映ってるんだよ。何分も棒立ちで気持ち悪いヤツ」
「あー・・・・・・ごめん」
「で、なに」
「えっと、なにも」
「・・・・・・もう寝る」
「・・・・・・ああ」
一人の時間を邪魔されたのが相当気に障ったのか濃く深く刻まれた皺は元に戻りそうもなかった。
「おやすみ」
「・・・・・・おやすみ」
カタン、もぞもぞ、無音、蝉の鳴き声。そして家主の足音。
咲也はこの日、たった三時間しか眠れなかった。
2
目が覚める。そこは見知らぬ天井──いやここは山本龍介の家。
眠りが浅かったせいか全くと言っていい程に頭に血が回っていない。それでもなんとか気怠い体を起こし、朝食が待ってるであろう居間へと向かった。台所から流れてくる匂いは実家ではあまり嗅ぐことのなかった和食の匂い。味噌汁と、何かが焼ける音。多分目玉焼き。
ぼうっと誘われるがままに台所を覗き込むと、やはりそこには龍介がいた。なんだかアンマッチな光景。いや、アンマッチなのは自分なのかもしれない。そう思うと、気づいた時には後悔の波だけが押し迫っていた。
結局は許されないし、許さないのだ。頭の中で猫が鳴く。
「うおっ、おはよう」
振り向いた龍介の顔が、笑顔が、この上なく眩しかった。
「もうできるから」
後悔しても、やり直せるように。言うだけなら簡単に、それこそ誰にだってできる。つまり『言うは易く行うは難し』
でも、そうだとしても、選んでしまった自分に背を向けることはできない。心は一歩も進んでいないのに時はどんどん進んでいく。ほんの少し嫌気が差した。
「咲也・・・・・・?」
後悔か、はたまた懺悔か。目玉焼きの焼ける音だけが耳に響く。
「・・・・・・」
龍介の背後に立ち尽くす。そして、そのまま動かない。寝起きの頭は相変わらず血の巡りが悪く、ぼんやりと時間が流れる。焼けていく目玉焼きは既に輪郭を作っていた。
「そんな見られると緊張するなあ」
胸焼けをしそうな優しい声。とても心地よく、うっかり吐きそうになった。
パチパチ、パチパチ。焦げそうな気がして、それはなんとなく嫌だなあと。気づけば居間に座っていた。
「おまちどうさま」
相変わらず反応のない咲也に思わず微笑んでしまう。朝がこんなに弱いとは思っていなかった。
丁寧に盛り付けされた朝食は食卓に並べられ二人の眼前を彩る。それから龍介の「いただきます」の一言。それに続いて咲也も無言だがそっと手を合わせていた。
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
黙々と食べる咲也。なんだか小動物のようで、愛らしさとまではいかないが可愛気を感じていた。だがそんな視線に気付いたのか、糖も回り始めた彼は眉に皺を作るいつもの表情に戻ってしまった。
「人の咀嚼行為を眺める趣味があるワケ?」
「あ、ごめん」
「朝から気持ち悪い」
「急に目覚めるなあ」
「とっくに起きてんだよ」
「あれ、さっき――」
続きを言おうとしたところでギロリと睨まれる。絶対に言わせないという意思を感じた。これ以上は触らぬ神に祟りなし、というやつなのかもしれない。でもとてもとても気になる龍介はそれっぽい視線を送ってみる。だがそれもあっさりと躱されいつのまにか朝食も完食されていた。嬉しいのだけれど、そうじゃない。
「ご馳走様。今日は出かけるから昼食はいらない。夜だけよろしく」
もうすっかりいつもの咲也に戻ってしまったようで、箸を置くなり準備のため自室へと戻って行った。置き去りを食らった龍介は渋々と後片付け。さっきのは幻覚だったんだろうか。
その日咲也は本当に夕方まで帰ってこなかった。家の戸が開いたのは陽も沈みかけな午後七時頃。ガラリと音が聞こえ出迎えに行くと両手には様々な店の紙袋が提げられていた。
「随分買ったな。何買ったんだ?」
「色々」
「その色々を知りたいんだけどな・・・・・・」
「はあ、人のプライベートにずけずけと首突っ込むなって前にも言ったはずだけど? ま、お前は鳥頭だからね」
「一宿一飯の恩って言葉は適用されないのか」
「随分恩着せがましいヤツになったもんだな」
「あーもう! 夜飯できてるからさっさと荷物置いてこい!」
「フ、わかったよ」
荷物を置きに行く咲也はどことなく足取りが軽く、口端も上がっているように見えた。
そんな彼は夕食の時もやたらと饒舌で、それは本当に九条咲也という人間なのかと思わせる程に奇妙な光景だった。でも、もしかしたらこれが本当の九条咲也なのかもしれない、そう思うと山本龍介という人間はどれほど彼のことを知らないのだろうと、改めて『知り合い以上、友達未満』の距離感を感じていた。
「今日はもう寝る。昨日みたいに部屋には来るなよ。気味が悪くて目が覚めるから」
「わかってるよ」
「あ、それと。明日朝に帰るから朝飯はいらない」
「え、あ、うん」
「それじゃ」
「あー・・・・・・おやすみ」
奥へと消える咲也をぼうっと見つめていると龍介自身も眠くなり自室へと向かう。その日はすぐに床についたが、なんとなく眠る気分ではなく、ただぼんやりと窓の外を眺めるばかりだった。遠くなった意識の中で蝉が五回鳴いた気がした。
いつのまにか手放していた意識が覚醒する頃には外はすっかり明るく、部屋には朝日が射し込んでいた。朝食はいらないと咲也は言っていたが、おもてなしモードの龍介としてはなんだか許せず気が付いたら台所に向かっていた。そしてある程度調理を終え、後は咲也が起きるのを待つだけというところであることに気付く。咲也の帰る時間だ。彼は昨日、正確な時間まで伝えなかった。それがなんとなく気になり彼の部屋まで行くと、そこは既に誰もいない空の部屋になっていた。布団は綺麗に畳まれ、ゴミ一つない状態。龍介もそこそこ早く起きたはずだったが、咲也はそれよりも早く起き、尚且つ掃除までして出ていった。
「一言あっても・・・・・・」
拗ね気味に部屋を出ようとした時、視界の端に小さな小包が映り込んだ。それは縦長の長方形で包装紙やリボンで綺麗にラッピングされていた。まさか忘れ物ではと思い手に取るとリボンで挟められていたであろう小さなメッセージカードが龍介の足元に落ちる。そこには手書きでたった三文字。
『使えよ』
何故だかそれは自分に向けられているように感じて、徐にプレゼントの包みを開ける。中には立派な箱に仕舞われた万年筆が入っていた。
「これ――」
直感的にわかった、ような気がした。素直じゃない咲也からの唯一の贈り物。手紙じゃなくて、それを認めるための道具。
「ふ、咲也らしいや」
大切に、大切に胸に抱える。『知り合い以上、友達未満』からもらった最初で最後の贈り物。
「あ、目玉焼き焦げる!」
二人分作ってしまった朝食をどうしようかと、並べてから気付くまであと数分。
エピローグ
咲也が家に泊まりに来てから数か月後。山本邸に一通の手紙が届いた。送り主はもちろん彼だった。
【山本龍介様へ
あんまり期待してないけど、読んでると思って書く。
変人だからあまり期待はしていないけど、読んだら返事しろよ。
それと、次日本から出る時は電話ぐらい寄越せ。
番号、書いておくから。
090―××××―△△△△
九条咲也】
この手紙に、龍介は『猫はちゃんと埋めたぞ』とだけ返信したとか、はたまた違うことを綴ったとか。