December 24 at,11:53 p.m.
浅屋 隼人
浅屋 緑
聖・ニコラス
一条 誠司
ダッシャー
ダンサー
プランサー
ヴィクセン
コメット
キューピッド
浅屋 和人
田畑 圭輔
プロローグ《Merry_Xmas》
純白の足跡。誰もが聴いたことのある音楽と街のイルミネーション。今日は所謂クリスマス。もちろんバイト帰りの青年の手にも例外なく市販のフライドチキン入りの袋が提がっていた。
そんなごく普通のクリスマス。友人は悉く深夜バイトでおひとり様。家族はいない。唯一身内と呼べる叔父もクリスマスとは縁遠い、いや寧ろサンタクロースのような赤は似合うかもしれない、そういう世界の人間。つまり青年も孤独のメリークリスマスというわけだった。
チキンが冷めない内に帰ろうと、やっと見えてきた自宅であるアパートの前に見慣れない何かが落ちていた。気になって近づいてみれば、それは何かなどではなく人間で。ぱっと見高校生ぐらいの男子だろうか。寝ている、わけではなさそうだが声をかけても反応はない。
うつ伏せで倒れているために顔は半分雪に埋もれ隠れていた。閉じられた瞳からすらりと伸びる睫毛は緑色で、雪に濡れた髪も同じく緑色。特徴的な容姿だったが昨今の日本では、特に青年が暮らしているような大きく栄えた街ではそう珍しいものではなかった。
どうしてこんなところで、と思うよりも早くその男子を抱えアパートの階段を上る。随分長い時間倒れていたのだろう、衣類は水分を含みしっとりとしていた。
部屋に入り居間の掛け時計を見れば、時刻はもう間もなく日を越えるところだった。純粋無垢な幼子であればサンタクロースに思いを馳せ、夢の中で微睡んでいる頃だろう。朝起きれば枕元にはプレゼントがあって、そんなクリスマス。だが青年はどういう因果か、クリスマスプレゼントでもなんでもない厄介ごとを拾ってしまった。
名前はない《No_name》
部屋に担ぎ入れ布団に寝かせるところまではよかった。体温を奪っていた服を寝間着に替え布団に寝かせ、小さい石油ストーブもつけた。後は目が覚めるのを待つだけ。ただ、この少年がもし見た目通りの高校生なら両親が心配しているかもしれない。電話をかけようとそれらしき物を探すも何一つ出てこなかった。干してある衣服のありとあらゆるポケットを確認しても身分証明になる物どころかスマートフォンすら出てこない。お手上げだ。
どうにもならない青年は少し冷めてしまったフライドチキンに口を付けた。やはりお持ち帰り前提なだけあって多少冷めようが美味しい。独りのクリスマスとは言えご馳走は欠かせない。今、布団で寝ている少年も今日はきっとご馳走だっただろうに。何となく勝手に私生活を想像しながら平らげていく。そして最後の一ピース。これは目が覚めた少年にあげよう。冷蔵庫に仕舞い、青年も冷めた体を温めようと風呂を沸かした。
聖なる夜《Misa》
サク、サク。サクサクサク。
足音が二つ。一つは三十代後半の見た目をした男のもので悠然と白を汚していく。もう一人は見た目十代の少女。男より数歩先を軽快なリズムで歩いていた。
「あ、見つけた」
ひたと立ち止まる少女。そこには雪に沈む人間が一人。数歩後に合流した男がしゃがみ、脈を確認する。
「蛻の殻だな」
「どうする?」
ううむ、と考え込む男の返答を待つよりも先にポケットから小さな水晶を取り出した。それは色濃く白銀を映し出し、まるでクリスマスツリーに飾るオーナメントのようだった。
「ニコちーまだだっけ?」
「まだだろう。今日のミサは特別らしいからな」
ふうん、と退屈そうにその手に収まる水晶を弄ぶ。
「だからこうやって唯一教徒じゃない俺らが来たんだろ?」
「うんうん。キョートのみんなは大変だねぇ~」
白銀を覗き込むとそれは不意に煌めき色を失っていく。透明になった先に洋風の小部屋が映し出された。それを見た少女はぴこんと目を輝かせ水晶を見せると、同様男もそれに目をやった。
『そっちはどうだい?』
水晶の中から声が聞こえる。それは小鳥が囀るように美しく、それでいてしっかりと芯の通った声。部屋の扉が閉まる音と同時に声の主が映り込んだ。二十代前半だろうか、若い青年。白銀の髪に白銀の瞳。顔立ちは西洋の造りでフランス人形のように美しい顔立ちだった。
「見つけたけど中身空っぽみたい! どうしよ~」
『そっか……やっぱりね。まあ、その体はどの道必要だから連れて帰ってきて』
「はぁ~い!」
水晶を男に投げ無邪気にはしゃいだかと思えば、その小柄な体は自分より一回りも大きい人間を軽々と担ぎ上げた。
『ダンサー、荒っぽいのはダメだよ』
「俺がいる。大丈夫だ」
横で憤慨するような声が聞こえるも慣れたやり取りなのだろう、軽く聞き流し水晶の中の青年と数言交わす。
「じゃあ、後で」
『今日のミサは、僕達にとって大切な儀式の一つでね』
水晶から目を離したその一瞬、中の青年が言の葉を紡ぎ始めた。それはまるで何かの本を音読しているかのように流暢で流麗。
『ある意味区切りのようなものなんだ』
「なんとなくはわかるぞ」
『なんとなくでいいよ。どうせその程度のものだから』
皮肉でも自嘲でもなんでもない、ただそうであるという事実を告げる声。
『だからこそ聞いてほしいんだ。この歌の意味を』
静かに開かれた口から流れる一音一音が男の耳に、隣にいた少女の耳に届く。
聖なる父よ
私たちは貴方を讃えます。
貴方は偉大な方、
英知と愛によって全ての業を行われました。
御自分に模って、人を造り、
造り主である貴方に仕え、
造られたものを全て支配するよう、
全世界を人の手にお委ねになりました。
人が貴方に背いて親しい交わりを失ってからも、
死の国に見捨てることなく、
全ての人が貴方を求めて見出すことができるように、
慈しみの手を差し伸べられました。
また、たびたび人と契約を結び、
預言者を通して、
救いを待ち望むように励ましてくださいました。
時が満ちて、
貴方はひとり子を私たちに救い主としてお遣わしになりました。
『──これは、ミサの中でもとりわけ大切な儀式で使われるものでね』
彼の言の葉には力がある、そう思わずにはいられないほどに美しい旋律、美しい文字の羅列。続きを聴かせてほしいと絵本の続きを強請る子供のように水晶をじっと見つめた。
『感謝の賛歌と言うんだ。けれども、これは信者の為に存在しているものじゃない。さて、ここで問題。この賛歌は誰の為に存在していると思う?』
ふっと微笑むその表情はまるで聖母マリアのように尊く、深い慈しみを孕んでいた。
小難しい宗教の知識などない二人は首を捻り答えを求める。思っていた通りの反応だったのだろう、愉快気に微笑み口を開いた。
『神、だよ』
真っ直ぐに二人を射貫く瞳。いや、その瞳は別のナニカを映していた。
『信者が信仰している神じゃない、この世界の神。キリストの神になりすまして僕らをこの地に留めているのさ』
彼の話は難しい。いつもそうだ。自分達には図りし得ない彼方を見つめながら、いつも別の誰かに聞かせるように語っている。この時ばかりは誰もが口を噤むのだ。
『フフ。つまり、そんなものなのさ。儀式なんて大仰なものはね』
そっと閉じられた瞼はその裏に何を映しているのだろう。神か、はたまた──。
名前がない《Amnesia》
冬の底冷えには湯がよく効く。芯まで温まった体が湯冷めしてしまわないよう、手早く体の水分を拭き取り部屋着を着て電気ストーブの待つ居間の扉を開ける。真っ先に助けた少年のことが気になって目を向けると、そこには体を起こし布団を膝に掛けたまま座る少年の姿があった。まだはっきりと意識が覚醒していないのか、虚ろな目が虚空を眺める。バタン、と扉が閉まる音に反応したのだろう、徐に青年の方を向きその存在を捉えていた。
薄っすらと開かれた瞳は髪と同じ緑色で、ほんの少し明度を落とした深い色を滲ませている。焦点が合っているのかわからないが目が合っているような気がした。何も言わずただただこちら側を見つめる瞳は不思議な雰囲気を纏っていて、それは虹彩が緑だからとかそんな俗人的思考からくるものではなく、何故かそう思わせる魔性を秘めていた。
そうして見惚れること数十秒。何となくだが相手はこちらの言葉を待っているような気がして、取り敢えず頭に浮かんだ一言を投げかけた。
「大丈夫か」
そう問うても結局は返答がない。勘違いだったのか。だが、こうして黙り込んでいても、ただ無駄に時間が過ぎていくだけで青年はまたもお手上げ状態。どうすることもできない以上見つめ合っていても仕方ない。水分を含んでずっしりと重くなったタオルを物干し竿にかけ、近くに座ろうと近寄ると少年は突然目を見開き、上手く声が出ないのか口をはくはくと動かしていた。青年を捉える深い緑には恐怖の色が滲む。
警戒されているのだろう。それも仕方ないと、怖がらせないように離れ、少年の座る布団から真逆の位置にあるテレビ近くの座布団に腰掛けた。ほんの少し距離が遠ざかったことによりパニックは収まったのか布団の端を握り、静かに様子をうかがう少年。その不安をひしひしと感じる青年はとにかく彼が安心できるよう、まずは自分の素性を明かすため口を開いた。
「浅屋隼人だ」
取り敢えず名乗ってみたが、その口はやはり重く閉じられていた。顔は俯き先程までこちらを見つめていた瞳も今は伏せられている。
「名前は?」
めげずに質問をしてみるも全くの無反応。そして近くのテレビをつけることもなく無音のまま数分。もぞ、と布団の衣擦れの音がしたかと思うと、その静寂を裂くようにか細い声が隼人の鼓膜を震わせた。
「わからない。何も」
やっと届いた声には感情と呼べるものはなく、その事実だけを淡々と語る。
「自分の名前もか」
ゆっくりと微かに頷く少年は本当に何も思い出せないのだろう、今にも霧散しそうに儚く、存在を希薄なものにしていた。
―記憶喪失。ドラマや漫画の中でしか見たことのないそれを始めて目の当たりにし茫然としたが、その対処法も同様ドラマなどで見ていたからか案外冷静に口を開くことができた。
「病院だな。後は……警察もか」
その言葉がきっかけだった。ビクッ、と一際大きく反応したかと思えば突然呻き声を上げ頭を掻き毟り始める少年。再びパニック状態に陥ったのか呼吸も不規則になり意味もなく布団から後ずさる。その目には何かが映っているようで目の前の一点だけを見つめ、ひたすらにそれから逃れようと部屋の中を滅茶苦茶に走り出した。だが体は憔悴しているようで上手く力を入れることができず、バランスを崩しては壁や棚にぶつかっていた。
そんな痛々しい有様を放っておけるはずもなく無理矢理ながらも両腕を掴み、暴れるのを必死で抑え込む。だがそれすらも少年の恐怖を煽るようで一層強い力で抵抗されるばかり。このままでは埒が明かないと、致し方なく壁際に少年を追い込み、その顔を隼人自身を見るように押さえつけた。
「大丈夫、大丈夫だ」
この少年に何があったのかはわからない。ただ、確実にその身を恐怖で支配されてしまう程のことがあったのは違いがなく、今はその恐れを少しでも和らげようと言葉にすることしかできなかった。するとそれがほんの少しだけ伝わったのか、少年は糸が切れたように倒れ込み再び意識を失ってしまった。腕の中で不規則な呼吸を続けるその体を、迷惑がるわけでも憐れむわけでもなく、ただそっと抱き締めた。
足音《Nightmare》
バタン、と扉が閉まる音。それを聞いて少年はそっと目を開けた。あの男はもう行っただろうか。気が付けば気を失っていた少年を隼人が布団まで運んだのだろう、ご丁寧に布団が掛けられており、体を冷やさないよう電気ストーブまでつけられていた。
少年が目を覚ましたのは隼人が起床するよりも数時間前のこと。浅い眠りに苛まれ長時間眠ることができなかったのだ。一度覚醒してしまうと、もう自分から眠りにつくことなどできるはずもなく、ただずっと自身を包み込む布団に身を委ねることしかできなかった。
そうして数時間後、隼人が起床し居間へと姿を現す。近づいてくる足音に心臓の鼓動が早まるのを感じ、必死に抑えようと無理矢理目を瞑った。もしかして何かされるのではないかという不安を拭いきれないまま数分、少年が次に気付いたのは料理の香り。カチャカチャと食器が並ぶ音が聞こえ、それっきり大きな音はなかった。そして、あの扉の音。もう大丈夫だと自分に言い聞かせ、恐る恐る部屋を見回すとテーブルの上に先程作っていたものだろうか、ラップがかけられた皿が三つ、そして小さな紙切れも見えた。どうせあの男の食い残しだろうと再び布団に潜ると、そこで腹の虫が空腹を訴えてくる。記憶のない少年はいつから食べ物を口にしていないのかすらわからない。じっと堪えればこの程度問題ないと言い聞かせ目を瞑るも虫は暴れるばかりで静まりそうにもなかった。
致し方なく料理に手を付けようと足を運ぶと、ラップ越しだが微かにいい香りが鼻に広がる。テーブルの上にはほかほかのご飯が盛られた茶碗、湯気でラップを曇らせながらもほんのりと良い香りを漂わせる味噌汁、大皿に盛られたフライドチキン、そして「腹が減ったら食べるといい。冷めていたら冷蔵庫横の電子レンジを使ってくれ」と書かれたメモが置かれていた。
腹が減って仕方ない。でも、少年は自分のために作られたその料理に口を付けることはやはりなかった。
それから数刻、帰宅した隼人は寝ている少年とテーブルの上の料理を見つめ、電子レンジで温めた後、自分で平らげていた。
そんなやり取りが数日。そして、ある日のこと。
少年は街中にいた。真っ暗で、道が一本しかない白銀の世界。道の両端にある街灯は道の先どころか足下さえ照らすことなく闇に佇むだけ。道を覆う白銀は靴を履いているはずの足を針のように刺激する。そんな中を走る、走る。ああ、痛い、痛い。だが足を止めることはできない。止めれば、追いつかれる。
コツ、コツ、コツ。それは規則的な足音でどこまでもついてくる。どれだけ走ろうとも、距離を空けようとも、それはどこからでも聞こえてくる。
どうして。いや、それ以前に少年は何に追われているのか。何に、追われている?どうして、少年は、走っている?逃げられない。逃げることはできない。何故ならここは奴の掌で──、
「ああああああ!!」
恐怖を振り払うように声を振り絞る。だがそこは一面の白銀世界などではなく、どこにでもあるごく普通の生活感溢れる部屋。あの足音など聞こえるはずもなく、寧ろ窓から小鳥の囀る声が聞こえていた。
そんな平和を彩る世界で整わない呼吸、じっとりと滲む汗。言いようのない嫌悪感が体を、脳を支配していく。
ああ、あれは夢だったのか、と安堵するよりもそれが現実になるのではないかという圧倒的な不安。息をを殺して身を潜める。次第に息が苦しくなり意識は再び銀世界へと捕らわれていった。
アンノウン《enemy》
毎日のように魘される少年を隼人はただ見守ることしかできなかった。触れればまた混乱させる、わかっている以上何もできない。ただ目覚めた時の為にご飯を作り、置いては見守る、それだけの日々。もどかしいばかりだった。
「──浅屋!」
自分の名を呼ぶ声ではっと我に返る。気付けば時刻は夜十時。バイトのシフト交代の時間だった。
「今日も残業大魔王か~? レジ点検あんだからさっさと鍵よこせ。ほらほら」
年上の先輩に言われるがまま鍵を渡してレジを後にする。タイムカードを切って帰る準備をしている途中、同じくシフト交代で出勤してきたよく話す同い年のバイトの子とすれ違ったが軽く挨拶を交わす程度で、今日はあまり話す気分ではなかった。帰る道すがらも、今日こそはさすがに食べてくれただろうか、などやはりそんなことばかりが頭の中に浮かぶ。
バイト先のコンビニから隼人の暮らすアパートまでは徒歩約二十分。冬の寒空の下では中々堪える距離だ。人気のない帰路を悴む手を温めながら歩いていると、見覚えのある緑が視線を横切った。まさか、そう思い駆け寄るとそれはやはりあの少年で、この寒空の下を隼人が着させた寝間着だけで歩いていた。
「おいどうしたんだ、寒いだろ……!」
勢いよく腕を掴んでからこの前の失態を思い出し、急いで手を離す。しまった、と思い少年の顔を窺うと、この前の時とは全くの別人かのように無反応だった。それどころか掴まれたことにすら気付いていないようで一心不乱に歩き続ける。その目は深く夜闇を映し、口はうわごとのように何かを呟いていた。微かに聞こえたその言葉は「くる、ヤツがくる」と、ただそれだけ。何度も何度も壊れたように繰り返していた。
「誰が来るんだ……? ああ、とにかくそんな恰好じゃ風邪を引く。戻るぞ」
いくら声を掛けても反応がなく、ずっとあの調子では埒が明かないということよりも少年の体の方が心配だった。少年を怖がらせたくないという気持ちとその憔悴しきった状態を天秤にかけ、隼人はやはりその手を取ることを決意した。
腕をとり少年がふらふらと向かっていた方向とは真逆である隼人の家へと多少強引にでも引っ張っていく。その進路を変えたことによる意識の浮上なのか少年の抵抗が徐々に強まっていくのを感じていたが、今はそれどころではなかった。掴んだ腕は氷のように冷たく、まるで氷柱を掴んでいるかのよう。人間が死ぬときはこんな冷たさなのだろうか、恐ろしい考えが頭をよぎって仕方ない。
恐れを振り払うように進んでいたが、家へと続く交差点で止まった時、遂に少年が隼人をはっきりと捉えてしまう。自分が数分前まで外にいたことなど覚えてもいないのだろう、ロクに力が入らない体で必死に抵抗していた。
「やっやめろ……離せ! 来る、アイツが来る! く、る、来るなああああああ」
「やめろ……っ! このままじゃお前が!」
なんとかこの少年を落ち着かせることができないか、そう考えていた時だった。それは交差点の向かいに立ち、二人のやり取りを嘲笑うかのように口を開いた。
「どうにかしてやろうか、ソイツ」
若い男の声。それは遠いはずなのにはっきりと耳に届き、次の瞬間には二人の目の前を拳で抉っていた。激しい破壊音と飛び散るアスファルト。人間離れしたソレを目の当たりにした隼人は脳に危険信号を送るよりも早く、本能でその場から走り出した。少年の手を取り少しでも早く、少しでも遠くに逃げようと足を動かすも、ドっと悪寒が押し寄せる。あれは一体何なのか、人間なのか、そもそもどうして突然目の前に現れたのか、次から次へと疑問が湧いては悪寒の波へ呑まれていった。
「あァ、追いかけっこ? 嫌いじゃないよ、オレ」
いーち、にーい、と数える声。鬼は謎の男。逃げるのは隼人と少年。わけもわからぬままに遊戯は始まりを告げた。
奴の視界に入らないよう急いで近くの角を曲がる。息を整えることなく再び激走しようとしたが、元からガス欠だった少年の足は最早棒と化しておりこれ以上の逃走は不可能だった。
「はぁ、はぁ……クソ……なあ、アイツ、知ってるのか」
問いに対しての返答はなく、ただ荒れた呼吸と何故自分を連れて走るのかと、そう問いかける瞳。それは隼人にもわからなかった。実はあの男は少年の知り合いで、隼人が少年を襲おうとしているように見えて助けに入っただけなのかもしれない。もしそうだとすれば男に引き渡すのが筋だ。だが、あれは到底そんな風には見えなかった。常人では考えられない動きとあの拳、そしてなにより少年を捉えた瞳はまるで餌を前にした獣のようだった。
「はぁっ、とにかく、逃げるぞ」
その場に崩れる少年を背負い再び走り出す。遠くから男の声が聞こえてきたが今はそれに怯んでいる暇はない。幸いこの周辺は隼人自身が暮らしていることもあり地の利は此方にあった。できるだけ細くて分かりづらい道を通り攪乱しようと試みるが、これがどこまであの男に通用するかはわからない。だがそれでも絶対に捕まるわけにはいかない、本能がそう告げていた。
探し物《Tag》
「もういいかーい」
問いかけは闇夜に呑まれ、響くのは無機質な足音だけ。
男はこのゲームを楽しんでいた。追う者と追われる者、男は狩る側で標的は何の力も持たない少年と青年。別段、弱者を甚振る趣味はないが、何も知らない人間の顔が恐怖に呑まれていく様は見ていて滑稽だった。
「それじゃ、まァ、探しますか」
余裕綽々と二人が逃げたであろう路地裏へと足を運ぶ。既にターゲットの姿はなかったが、薄っすらと積もった雪に残された足跡がどこへ向かえばいいのかを指し示していた。
ゆっくりと、徐々に追いつめていくこの高揚感。見つけた時に獲物はどんな顔をしているのか、さぞ恐怖に怯えた顔をしているのかと思うと沸々と笑いが込み上げてくる。だが、とある路地の突き当りで消えた足跡。どういう仕組みかわからないが完全に見失ってしまったようで、土地勘のある相手にやはり無謀だったかと頭を掻いていると、空から声が降ってきた。
「探ス?」
「いんや、自分で探す。手ェ出すなよ、コメット」
上を見上げるとそこにはふわふわと空に浮かぶコメットと呼ばれた青年が浮かんでいた。大きなローブを身に纏い、フードで顔を覆っている。その手には小さなステッキが収まっており、その先端に嵌め込まれた結晶が怪しげな光を放っていた。
「分カッタ」
フードの隙間から僅かに見えた口元は半月状に歪み、笑っているようにも見える。風に靡くローブと次々に色を変える結晶が彼の異様さを際立たせていた。
「こういうのはチート使ったらつまんねェからさ。それに、今日取り逃したところでニコラスさんだってそう怒らねェだろ」
来た道を引き返し、再び標的を探し始める。夜は長く、街は広い。男を退屈にさせるにはまだ早かった。
浅屋 緑《My_name》
「はぁっ、はぁ、はぁ……」
家のドアを開け雪崩れ込む二人。あの交差点から一度も見つかることなく、なんとか家まで逃げ切った。だがそれでも安心ができない。あの表情、目つき、声を思い出すだけで、それがまた目の前に現れるのではないかという悪寒が全身を駆け巡る。ここで見つかれば一貫の終わりだ。
どうすれば、どうしたら。考える内、自然と隼人は少年を抱き寄せていた。何が起きても庇えるように、せめて一撃からは守れるように。強く、強く。冷え切った体は最早限界なのか抱き締められたままに動くことはなく、されるがままだった。
「大丈夫だ、きっと。大丈夫」
息を殺して数分、数十分。徐々に少年の体も温まり呼吸も自然なリズムに戻っていく。それにつられるように隼人からも少しずつ緊張感が抜けていった。
「玄関じゃ寒い。部屋に入るぞ」
立ち上がろうとする隼人を少年の手は引き留めた。その体温が心地良いのか、はたまた安心できるのか服を掴んで離そうとしない。未だかたかたと震える体は確かに隼人を必要としていた。
結局その後も少年が眠りにつくまで玄関に二人、朝まで静かに息を潜めていた。あの男もここを見つけることはできなかったようで二人の前に現れることもなかった。
少年が目を覚ましたのはお天道様が天辺に差し掛かった頃。この日だけは悪夢に魘されることもなく深い眠りの中から自然と覚醒でき穏やかに瞼が開かれた。部屋の中には相も変わらず手を付けられることのないであろう手料理がある。毎日毎日、どうして食べられないとわかっていてあの男は作るのだろう。惨めだ。それは、作った男だけではなく、食べようとしない少年自身も。
テーブルに並べられた料理。それをぼうっと眺め少年はふと考えた。
「……名前、なんだっけ」
一方、隼人が目を覚ましたのはその数時間後の午後三時過ぎ。気力、体力の消耗だけでなく少年が眠りにつくまでずっと見守っていたこともあり、疲労困憊でこんな時間まで眠ってしまったのだ。
未だ気怠い体を起こし居間を確認すると、すっかり目が覚めた少年と目が合う。大きな緑が隼人を捉え、ぱちぱちと瞬きをする度に細長い睫毛が揺れる。ふい、と目を逸らされ行き場を失った隼人の視線は次にテーブルの上を捉えた。それは少年を助けてから一度も見ることはなかった完食された皿。綺麗に料理は平らげられていた。
「……食べたのか」
「アンタが、食えって書いたんだろ」
初めてまともに会話をしたように感じる。実際そうだった。助けてから初めて目を覚ました時も感情のある意思疎通はできなかったし、いつも何かに怯えていてちゃんとした日本語を喋っていた記憶もない。
突然の変化に動揺しながらも完食された皿を流し台へと運び洗っていく。やっと落ち着いて会話ができるようになったことに、今までの緊張感や不安が和らぐのを感じていた。
「よかった」
「アンタ、名前なんだっけ」
いつの間にか台所の近くまできていた少年がそう尋ねてくる。隼人は初対面の時、怯える少年の為に名乗ったはずだったが、あの時は自我が覚醒していたのかも定かではなかったために忘れてしまったのだろう。
「浅屋隼人だ」
今一度そう名乗れば、今度は忘れまいと少年は復唱する。アサヤハヤト、自分を助けた男の名前。
「美味かったよ、アンタの飯」
小さな声で告げると少年は再び布団へと戻って行った。
皿を洗い終え居間を見やると布団の上に黙って座っている少年と目が合う。何も言わず見つめ合う二人の静寂を先に破ったのは隼人だった。
「何か思い出せたか」
もしかしたらと思い聞いてはみたものの、やはり記憶は戻っていないようでふるふると首を横に振る。
「そうか……」
ふっと訪れる静寂。別段気まずいことはないのだが何となくテレビをつけると、画面には年末にありがちな大晦日特番が映し出された。バラエティーをあまり見ない隼人でもわかる大物芸能人の数々。これといって面白いわけでもないがチャンネルを変えても同じようなのばかりだった。
「行く宛てもないんだろ」
「そうだけど」
「だったら、ここに居ると良い。何か思い出すまで」
テレビから聞こえてくる音がやけに煩くて電源を切った。少年は布団の上に座ったまま微動だにしない。ましてや返事が返ってくる気配もない。真っ黒を映し出すテレビを長いこと見つめていた。
「名前、つけてよ。アンタに名乗る名前がない」
振り返れば隼人を見つめる真っ直ぐな瞳。今は初対面の時のような濁りもなく、綺麗で澄んだ美しい緑。意識が吸い込まれたかのように黙っていると、痺れを切らした少年がずかずかと近寄り目の前に立っていた。
「名前か……」
ふむ、と考え込んだまま動かない。その表情は真剣そのもの。眉間の皺がそれを物語っている。少年が適当でいいと言っても生真面目な隼人はそうはいかないようで、悩み抜いた挙句静かに口を開いた。
「緑、はどうだろう」
「は?」
思わず素っ頓狂な声が出た。この男、まさかとは思うがここまで時間を使って考えた挙句、如何にも容姿から切り取りましたとでも言わんばかりのその短絡的な名前を本気でつけるつもりなのだろうか。
「綺麗な緑だったから……いや、すまない」
隼人の言葉には飾り気が無い。それ故にストレートに心に響くものがあった。
「まあ、適当でいいって言ったのは俺だし……いいよ、それで」
存外気に入らなかったわけでもない。何もない少年が持っていた唯一の緑。それが名前になるのなら、そう悪くもないのだろう。
「緑。アサヤ……緑。よろしく」
目の前の男が自分の為につけた名前だと思うと、どこか気恥ずかしくつい顔を逸らしてしまう。
「ああ、よろしく。緑」
自分でつけた名前を確かめるように口にした。緑当人もその響きを確かめるように静かに立ち尽くす。放っておけばいつまでもそうしていそうな静寂に耐えられなくなったのかテレビのリモコンを手にする緑。赤い電源ボタンを押し、興味もない大晦日特番を眺める。見たところで記憶のない緑にとっては、誰なのかもわからない全く知らない人間をただ眺めるだけで意味はない。ただそうしてないとあの男、いや、隼人の視線に耐えられそうになかった。
「今日って、大晦日なのか」
番組のテロップには漢字三文字が映し出されていた。ドタバタして忘れていたが今日は十二月三十一日、そう大晦日。人や自分に関しての記憶はない緑だったがどうやら一般常識などは覚えているようだった。
「俺もすっかり忘れてたな」
緑を助けたあのクリスマスから丁度一週間。日付を気にするよりも緑が気がかりで、時の流れをすっかり忘れてしまっていた。世は家族団欒、一つのテーブルを囲み幸せとまでいかなくとも、何事もない平和で平穏な一日を過ごしているはずなのだ。奇妙なこの状況にほんの少しだけ笑みが零れる。それは本当にほんの少しでその変化に緑はまだ気が付かない。
「年越し蕎麦、食べるか」
思いついたように食材の買い出しへと出かけて行った隼人を、一つのテーブルの前で緑はじっと待っていた。
浅屋 和人《Asaya》
今日は一月二日。二人は無事、年を越した。
あの日以来、妙な男は姿を現していない。あの男は何者だったのだろう、そう思い緑に訊ねても求めているような答えは返ってこなかった。未だ拭えぬ不安感に足を引っ張られながらも隼人はバイトの為に家を出るしかなかった。
部屋には一人、緑だけ。名前をもらってから数日、ずっと隼人と一緒に居ただけあって一人はどうにも慣れない。ぽつんと、そこだけ世界が切り取られたような感覚。どうにもこの静寂に耐えられそうになくてテレビをつけてみるが、そこに映るのは知らない顔ばかり。隼人がこの前教えてくれた有名人も何人か映っていたが、一人で見るテレビは別段面白くなかった。
気を紛らわすためにつけられたテレビがなんだか喧しくて消すと、それを見計らったようにチャイムが鳴り響く。年賀状や郵便物の類かと思いドアを開けると、そこには配達員ではなく清潔感のあまりないおっさんが立っていた。
「ん? 部屋間違えたか……いや、合ってんな。お前さん、誰」
「そっちこそ、誰」
「おー、年上に口の利き方がなってねえなあ。ま、いいや。オジサンそういう生き急いだヤツ結構好きよ? ほれ、上げろや」
こちらが何かを言う間もなくずかずかと部屋に上がり込む不審者。如何にも怪しげな雰囲気に思わず身構えるとそんな空気を察したのか楽し気に口の端を釣り上げた。
「お前、隼人の友達か? にしてもアイツ、客さん置いてどこ行ってんだか……ああ、オジサンのことは気にしなくていいから勝手にくつろいでくれや」
「気にするに決まってんだろ。オジサン、何。もしかしてアイツのお父さん?」
「いや、まさか。聞いての通り伯父さんだよ」
書いて字の如く、そう言っては何が面白いのかニヤニヤと笑っていた。
「浅屋和人。覚えなくていいぞー」
一方、三が日の朝からせっせと働く隼人は夕方頃ようやく解放された。せっかくのお正月を勤労に費やした対価として、店の廃棄品ではあるがおせちを貰いほんの少し得した気分。ついこの前までの不穏さが少しずつ晴れ始めているのを感じていた。
だがその平穏も刹那に過ぎない。家に帰り玄関の扉を開けると見覚えのある靴が一足。それは隼人にとってあまり、いやかなり会いたくない人物のもので、先程の幸福感はどこへいったのか一転して眉根を潜めることになってしまった。そして何より懸念しているのは緑の存在。彼とアレが会うのはあまりにも好ましくなかった。居間の扉を開け放つとそれはやはり幻覚などではなく憂慮していた通りの人物、浅屋和人で疲れが一気に押し寄せる。
「よお、隼人。やっと帰ってきたか」
「……来るときは一言入れろって言ったよな」
「それが叔父に対する口の利き方かねえ。お前ら揃いも揃って」
テーブルを占拠し自分で持ってきたのであろう蜜柑を剥いては口に放る。向かいに座る緑も同様にせっせと皮を剥いてはちまちまと食べていた。パニックを起こしている様子もなく、その点は安心できたが事の本質はそこではない。
「何の用だ」
「何の用って、正月の挨拶回りに決まってんだろ。組の挨拶回りで一日遅れちまったけど三が日の内ならセーフだろ。ほれ、お年玉」
「何歳まで渡すつもりだ。去年で最後にしてくれって言っただろ。それに、そっちが忙しいなら態々ここに来なくていい。寧ろもう用は済んだだろ、帰ってくれ」
普段温厚な隼人が和人に対してここまで冷たいのには訳があった。それは幼少の頃の話。当時母親がいなかった隼人の孤独を紛らわそうと、父親と住んでいた家によく遊びに来ていたのが和人だった。だが彼が人数は多い方がいいだろうと一緒に連れてきた人間があまりにも悪かった。悪かったというのはつまり、見た目である。和人は昔から組、所謂ヤクザの世界に身を置く人間だった。連れてきた人達の性格自体はそう悪くはないのだが、如何せん幼い隼人にとっては見た目という第一印象が全てで、つまりその時見た厳つい男の集団がトラウマになっているのだ。そしてそのトラウマを隼人が大きくなってからも幾度となく無神経につついてくる和人が苦手なのである。
「はーあ、昔はもちっと可愛げあったはずなんだけどなあ。んじゃま、隼人の分はガキンチョにやる。大事に使えよ?」
「いいの?」
いいからいいからと無理矢理ポチ袋を押し付けられ困惑するも、嫌がる素振りを見せない緑になんとなく気分がよくない。不愉快とまではいかないが、いつの間にここまで仲良くなっているのやら。
「おい、緑に余計なこと言ってないだろうな」
「余計なことってなんだよ。お前が帰ってくるまで普通に他愛もない話してただけだぞ? ま、記憶喪失でかつ居候ってのはちとびっくりしたがな」
「このオジサン、結構おもしれーわ」
「こらこら和人さんだって教えたろ」
気さくに話す二人にどこか置いて行かれているような気がして気に食わないのか和人を玄関まで引っ張っていく。
「おいおいもう帰れってか」
「どこまで聞いた」
「あ? さっき言った通りだ。つうか、記憶喪失ってわかってんなら病院ぐらい連れて行ってやれ。正月でもやってるとこはあるだろ」
「それは緑が嫌がる」
「はあ? 我儘聞いてる場合じゃねえだろ」
「とにかく、駄目なんだ」
連れて行こうとすればまたパニックに陥るかもしれない。それにあまり公共の場に姿を現してあの男が出てきたら今度こそ捕まるかもしれないのだ。それを考えると現状この家にいるのが最も安全かつ安心できる。
「隼人、お前あんま面倒事にゃ首つっこむなよ」
こういう時ヤクザの勘というのは案外侮れなかったりするもので、何かを察したのだろう、それ以上深く追求してくることはなかった。
「じゃあまあ、今日は帰るかな。親父が夜から出かけるってんで付き合わねえとだし」
靴を履く音に気付いて見送りに来た緑の頭を乱暴に撫で部屋を後にする。ひらひらと手を振られたが完全無視、颯爽と居間に戻った。
「おっちゃんには冷たいんだな」
「いいんだ、あれで」
「ヤクザって怒らせると怖いんだろ? 大丈夫なのかよ」
「それぐらいで怒らないさ……って、ヤクザだって聞いたのか」
頷く緑を見てやっぱり余計なこと言ってたんじゃねえかと文句を垂れる隼人であった。
田畑圭輔《Friend》
隼人はアルバイターであるのと同時に大学生である。というか寧ろこちらが本分で、ここ数週間は冬休みだったために行かなかっただけであり、普段は三年生ということもあってほぼ毎日のように通っていた。
今日は冬休み明け最初の授業。天気が晴れということもあり気分のいい休み明けを迎えることができた。朝から夕方までまったりキャンパスライフ。更に講義後は夜までバイト。家に残してきた緑にはちゃんと昼夜のご飯は作り置いてきた。
「お疲れ様です」
シフト交代時間の十分前にレジに入り点検作業を始める。その生真面目さ故に隼人はバイト先で勤勉大魔神や残業大魔王など愉快な呼ばれ方をしていた。
「お、今日も早いな~おはようさん、ハヤト」
名前を呼んだのは同じバイトの田畑圭輔。彼は隼人が小学生の時の友人で、中学からは別々の学校に通っていたがこのコンビニでバイトとして再会、時が経っても昔のように話せる唯一の友人である。
「おはよう。今日は遅刻しなかったんだな」
「そんな毎日遅刻してたらクビになってまうやろ!」
どぎつい関西弁を使うが実は似非。なんでも関西圏に強烈な憧れがあるとかないとか。その大阪かぶれっぷりのあまりに服はイロモノどころか最早ファッションモンスター呼ばわりされている。この前など色付きサングラスで出勤して店長に呼び出しを食らっていた。ちなみに今日は色なし丸眼鏡。
他愛のない会話をしながらの事務作業でもなんだかんだ手際のいい二人。そうこうしている内に数人が来店。その手には傘が握られていた。
「あれ、雨かいな。こんな真冬にツイてへんわ。隼人、傘持ってきたか?」
「いや、俺も忘れた」
帰りにここの傘買ってくか~と項垂れる圭輔を余所にレジに並ぶ客を捌いていく。雨宿りついでに何か買っていく人が多い。
続々と来店する客一人一人の顔など確認できるはずもなく流れ作業的に「いらっしゃいませ」と言っていると目の前に見知った顔が現れた。
「いらっしゃいませ。あ、」
「傘」
ずい、と傘を押し付けてきたのは家にいるはずの緑だった。
「お前……家に居ろって」
「雨すげー降ってるから持ってきてやったんだろ。感謝しろよ」
傘を押し付け店を出ようとする緑を急いで引き止める。
「緑、お前の傘がないだろ」
「あ」
うっかりである。一緒に暮らしていてわかったが緑は結構抜けているところがあり、その都度隼人がカバーしていた。
「バイトが終わるまで裏で待ってろ。一緒に帰ろう」
雨に打たれて風邪を引くこともそうだが、何よりこの薄暗い中を一人で帰らせるのは少々不安があった。大振りの雨を見て流石にずぶ濡れにはなりたくなかったのだろう、やむを得ずという形ではあったが隼人のバイト終わりまで待つことになった。
そのやり取りを横目で見ていた圭輔がレジを捌ききった後にずかずかと近づいてくる。彼のコミュニケーション能力は関西リスペクトによるものなのか尋常ではない。にぱ、と人懐こい笑みを浮かべ緑に話しかける。
「ボウズ、ハヤトの子供か?」
「そんなわけあるか」
「じゃあ幼い頃生き別れた弟か! よかったなあ~再会できて!」
大喜利をしないと死ぬ病にでもかかっているのか、次から次へと炸裂するボケに隼人のツッコミが止まらない。緑はというと初対面にしてこの馴れ馴れしさに動揺しているのか隼人の一歩後ろに下がって様子を窺っていた。
「外で倒れてたとこを助けたんだ」
「おっ、なるほど懐かれたんやな! にしてもちゃんと傘持ってきて偉いなあ~ほれ、アメちゃん」
「いらねえしガキ扱いすんなよ」
どうやらこの関西ノリについていけないようで露骨に嫌な顔をしては圭輔を睨みつけていた。
「うわ、口悪っ! ハヤト~~自分世話しとるんやったら礼儀ぐらい教えたれや~~」
緑の睨みなど意に介さずマシンガントークを続けるので、いい加減黙るよう圭輔を押さえつけ裏の従業員休憩室へと緑を連れていく。帰るまで大人しく待っているよう退屈しのぎの雑誌を渡しレジへと戻ると、待ちくたびれた圭輔がぶつくさと文句を垂らしていた。
「ちゃんと紹介してくれたってええやん、いけず」
「緑だ」
「うん?」
「名前」
「ほぁ~変わった名前やね。じゃあみどチャンや!」
初対面の人間に変な呼び名を付けるのが趣味なようで、以前隼人も「は~ちゃん」なんて可愛らしい名前で呼ばれていたことがあった。
「病院はちゃんと連れてったか? 倒れてたんやったら、どっか悪くしてるかもしれんやろ」
「……いや、それは緑が嫌がってな」
「何やお子ちゃまでもあるまいし。さては、ヤバい事でもしたんか?」
「さあな。本人も何も覚えてなかったんだ、わからない」
ただ、何かヤバいことに首を突っ込んではいることは、あの夜身をもって知った。警察や病院に行きたがらないのも本能が危険を知らせているからなのだろう。
「それって記憶喪失やんか。尚更さっさと病院連れてかな。わがまま聞いてる場合とちゃうで」
「それは、わかってる」
「……随分可愛がってんのう」
「可愛がってるつもりはないんだがな」
本当にそんなつもりはない隼人だったが、圭輔と話している内に自分の甘さ気づかされつい溜息をついてしまう。なんだかんだと緑の主張を受け入れてしまっている自分は、将来子供ができたら親馬鹿になるだろう、そんな呆れるようなことを考えながら。
襲撃と共に《Raid&Determination》
「田畑の兄ちゃん、最初はウゼー奴って思ったけど話したら結構楽しかったな」
「見た目や言動がアレだからな。まあ、仲良くなってくれてよかった」
時刻は夜十一時ちょっと前。普段ならもっと早く帰路につけるのだが今日は退勤間際に隼人側のレジが機械トラブルを起こし、その対応で残業になっていた。中々迎えに来ない隼人を待ち続けていたところ、圭輔が気を利かせて話し相手になってくれていたようだった。
雨は相変わらず大降りで薄っすらと積もっていた雪を全部溶かしてしまった。一本の傘に肩を並べる二人。幸い傘が大きいのと緑が小柄なこともあり、どちらも雨に濡れることはなかった。もちろん、傘を持つのは隼人の担当。
「ほんとすげー雨」
手を広げると痛いくらいに激しく当たる雨粒。一つ一つが大きくて、数も多い。子供のようにはしゃぐ緑は好奇心のままに傘から飛び出し、ずぶ濡れになっていく。
「緑、風邪引くぞ」
せっかく雨に打たれないよう一緒に帰ろうと提案したのにこれでは意味がないと小走りでその後を追うが、その体はバシャリと音を立て膝から崩れ落ちる。水溜りに広がっていく赤。あまりにも平和な日々が続き、忘れていたあの悪寒。鮮明に蘇るのと同時に、口に広がる鉄の味が急速に隼人を現実へと引き戻した。
「っ、ぐふ」
「隼人!?」
急いで隼人の元へ駆けつけるよりも早く、二人の間に撃ち込まれる弾丸。銃声は激しい雨音によって掻き消され、相手の獲物を銃だと認識するのに数瞬かかった。
「ビンゴ!」
声のする方向を見やれば、そこにはピンク髪の幼い少女と金髪の女性が立っていた。少女の両手にはその容姿に似つかわしくない拳銃が一丁ずつ。
「ハズレよ。あれぐらい一発で仕留めなさいよ」
そう冷たく言い放った金髪女性の手にも物騒な獲物、ナイフが数本握られていた。明らかに一般人ではないこの雰囲気はあの夜に現れた男と同じもので、記憶は曖昧ながらもあの時の混乱と悪寒を覚えている体は恐怖に支配され一歩も動けずにいた。
「もう、うるさいなぁ~! この雨の中じゃヴィクセンだったら掠りもしないんだから!」
「生憎、銃なんてノンスリルな武器はワタシの管轄外なの。お子ちゃまは遠くからチマチマ撃ってなさい」
ヴィクセンと呼ばれていた女が緑めがけて走ってくる。距離は四十メートルもなく、あの男同様人間離れした脚力で距離を縮め、その手に握られたナイフで切り裂かんと振りかぶる。息もできぬその一瞬、見開かれた目に映ったのは切り裂かれ飛び散る自分の血ではなく撃ち抜かれたヴィクセンの手から滑り落ちるナイフと滴る血だった。
「ごっめ~ん。遠くからチマチマ撃ってたら当たっちゃった」
「ダンサー……!」
正確に撃ち抜かれた掌は決して誤射などではなく、明確な悪意を持って撃ち抜かれたもので、ダンサーと呼ばれた少女も隠すつもりなどないらしく、遂にはいつでもヴィクセンの額を撃ち抜けるよう銃口を完全にロックしていた。
一触即発の空気の中、二人が互いに気を取られている隙を逃すまいと隼人は腹部を真っ赤に染めながらも恐怖で動けずにいる緑の腕を掴み、目でここから逃げるぞとアイコンタクトを送る。掴まれたことで正気に戻ったのか体が動くようになり雨音に身を溶け込ませ少しづつ離れていく。隼人の腹部からは相変わらず血が流れていたが、滴る血は運よく雨に流され血痕が残らなかった。
「ニコラス様の命令に背くつもり?」
「殺したら連れて帰れないじゃん」
「死なない程度に甚振るのよ。抵抗も逃走もできないようにね。だから邪魔するんじゃないわよクソガキ」
撃たれた右手とは逆の手にナイフを持ち替え再び斬りかかろうと振り返ると、既に標的の姿はなく近くに膝をついていたはずの男も姿を消していた。
「シット! アンタのせいで逃がしたじゃない!」
「私のせいじゃないもん! 最初に文句つけてきたヴィクセンが悪い!」
「ああもう、今日に限ってこんな大雨でキューピッドもコメットもいないなんて……!」
「探せばいいんでしょ! 探せば!」
互いを罵り合いながら消えた標的を追う。洗い流された血の匂いを辿る姿はさながら殺し屋のようだった。
一方、追われる側の二人は息も絶え絶え、隼人に至っては大量出血で今にも意識を失いかけていた。重くなっていく体をなんとか奮い立たせ緑の支えを頼りに歩いていく。この前のように家まで辿り着ければなんとかなるかもしれないという一縷の望みが隼人を突き動かしていた。
「隼人、はぁ、もう少しだから……!」
だがそれでも出血は止まることなく否応なしに意識を引きずり落とす。遠退いていく意識の中で最後に見えたのは、今にも泣きそうな緑の顔だった。
次に隼人の目に映ったのは自宅の天井。それで自分が意識を失っていたことに気付き、慌てて飛び起きるも腹部の激痛で再び布団へと体を横たえる。腹の中にあった弾丸は取り除かれているようだったが、それでも痛いことに変わりはない。
さっき起き上がろうとした時の呻き声で気付いたのか横の部屋に居た緑が慌てて駆け寄ってきた。
「隼人……!」
不安げな顔で体のあちこちを確認しては何度も何度も心配そうに顔を覗き込むその姿に申し訳なさが募り、ただ一言「すまない」とだけ小さく呟いた。守ろうとしたものに助けられ、それでいて自分は足を引っ張ったという事実に不甲斐なさばかりが込み上げてくる。
「ほんとに、大丈夫か……?」
じっと見つめる瞳はたかだが二週間程しか一緒に暮らしていない男を本気で心配していた。
「ああ、大丈夫だ」
その言葉を聞いてひとまず安心したようで緊張の糸が切れたかのか脱力し、そのまま意識を手放した。布団の上で寝息を立てる緑の髪にそっと触れ、自分の心臓にも手をあてる。ドクン、ドクン、と規則正しい心音。こうして二人揃って家にいることが奇跡のように思うのと同時に、次は死ぬかもしれないという言い得ぬ不安が隼人を蝕んでいく。
「目ェ覚めたのか」
聞こえてきたのは和人の声。思えば鉛玉の摘出ができる人間など隼人の周りには一人しかいなかった。
「どういう喧嘩したら腹に鉛玉ぶち込まれて帰ってくるんだお前」
和人にしては珍しく怒っているようで、きっと向こうの世界にいるときの彼なのだろう、普段見せたこともない鋭い目つきをしていた。
「……悪かった」
「謝るぐらいなら……はあ。ったく、お前の母さんに顔向けできねえや」
「どうして母さんが出てくる」
「約束したんだよ。もしお前が一人になるようなことがあれば、その時は面倒見るって」
知らなかった。今までただなんとなく来ていたと思ってたのにそんな約束があったなんて。母の不安が的中して父も後に事故で亡くし、独りぼっちになった隼人を何かと助けてくれた和人だったが、そんなものはただの気紛れや同情からくるものだと思っていた。
「それがこれだ。だから、謝んなら俺じゃなくて墓前の母さんにするこったな。あ、後ガキンチョに礼言っとけよ。俺のこと呼んだのアイツなんだから」
「緑が、」
「ヤクザならどうにかできんだろ! って、これだから堅気は……ちゃんと教えとけ。ま、実際弾丸処理なんて日常茶飯事だ。よかったな、俺がいて」
ポケットから煙草を取り出し火を着ける。揺らぐ煙が部屋に溶け込み、薄い灰の幕を作っていた。
「……頼みがある」
「頼まれごとならオメーの母さんで手一杯だよ」
「戦い方を教えてほしい」
助けられた恩返しなどという殊勝なものではない。ただそうしなければ二人とも生き抜くことはできない、その想いだけだった。
「ガキの喧嘩にそんな力はいらねえよ。それとも何だ、殺しでもするつもりか?」
「だから、アンタに頼んでる」
ただ逃げ回るだけでは解決しない。戦うしかないのだ。守りたければ、生き延びたければ。
その決意とも呼べぬ代物に和人はきっぱりとNOをつけつけた。
「言っただろ、約束があるって」
向こうの世界に手を染めるようなことだけは頑なにさせまいと必要以上の話はしてこなかった。血で血を洗うこの世界は隼人の母が望んでいない影の世界。かつて血塗れの姿で会った時は一日中泣かせてしまったこともあった。だから、もう二度とあんな顔はさせまいと、その子の隼人にはそんな真似だけはさせないようにと細心の注意を払ってきたつもりだった。
「それは、わかってる。でも……いや、生きるためなんだ」
真っ直ぐで濁りのない瞳。その決意のような儚い意志は固く、揺らぐことも譲ることもない。その表情があまりにも、そう、あの約束をした時の隼人の母と同じ顔をしていて、賭けたプライドよりもその想いを取らざるおえなかった。
「……生き延びるための術を教えてやる。殺しは教えねえ、いいな」
頷く隼人に手渡されたのは一丁の拳銃だった。
母《Grave》
あれから数日、概ね回復したその体で二人は墓参りにきていた。街外れの小さな墓所。そこに隼人の母の墓がある。敷地内の奥にある、浅屋の文字が彫られた墓石の前で隼人が立ち止まった。
「ここが?」
「ああ。母さんの墓だ」
この前の大雨という異常気象のおかげで墓所の雪も概ね溶けていた。墓石には昨日降った分だけがうっすらと覆っている。それを軽く払い、数本だが買ってきた花を供え線香に火を着けた。そっと手を合わせる隼人を真似るように緑も隣で手を合わせる。
ちらりと隼人の横顔を盗み見ると、どんな会話をしているのか、眉間に深く皺を寄せ辛そうな顔をしている。
「こっちが死ぬかもしれない時に、墓参りなんてな」
「馬鹿言うなよ」
珍しく弱気な隼人に思わずカッとなってしまう。そんなことは起きない、起こさせない、でないと今まで生き抜いた数週間が無かったことになる。それだけは嫌だと強く握り締められた拳が物語っていた。
「悪い」
静かに立ち上がり来た道を引き返していく。その後を追うように歩く緑を引き止めるかのように後ろから声がした。
「──気ヲ付ケテ、」
振り返ってもそこには誰もいない。まさかとは思い隼人に聞いてみるも、そもそも口を開いていなかった。風の音か、はたまた二人の歩く音がそう聞こえたのか。だがあれは明確に誰かの声だった。
「ココカラハ 引キ返セナイカラ」
声は確かに、そう告げていた。墓所を囲う塀の上から黒いローブをはためかせ。
敵襲《Priest》
墓所から出て数歩で異変に気付いた。二人の目の前に立つ男女。一人は明らかに見たことのある女、ヴィクセンだ。仲間に撃ち抜かれたはずの右手はどういうマジックか、傷跡一つなく綺麗に塞がっていた。もう一人の男は見たことのない人物だったが、女と似たような恰好をしているところから二人にとっていい存在ではないことが明白だった。
「ハァイ、元気してた?」
馴れ馴れしく話しかけるヴィクセンとは対照的に二人の緊張感は高まっていく。まだ傷も塞がりきっていない隼人は一撃も食らうわけにはいかない。
「アンタら、一体何が目的なんだ」
コイツらが現れるようになった時期を考えると狙いは緑で間違いないはずなのだが、目的が分からない。毎回狙ってくる人間は性別や年齢がてんでバラバラで、血が繋がっているような感じでもなく本当に統一性が無い。似たようなデザインの服を着ているところからして同じ組織か何かに所属しているようなのだが如何せん手掛かりが少なすぎて推理のしようがなかった。
「そのガキに決まってるでしょ? 大人しく渡せばアンタは見逃してもらえるかもねえ」
「緑をどうするつもりだ」
「ミドリって、そのガキの名前? まあもう別人になっちゃって。いっそ器は壊した方が早いんじゃない?」
「やめろヴィクセン。器も連れて帰る、それがニコラスの命令だろ?」
ようやく口を開いた男はこれぞ快男児と言わんばかりに明るく、出会いがこうでなければもしかしたら親しくなれていたかもしれなかった。
二人の物騒な会話に益々不信感を高め、いつでも逃げ出せるよう構える緑。一方隼人はダウンの内ポケットに秘策を仕込んでいた。再びやってくるであろうこの展開のために和人から授かった秘策。つまり護身用の銃だ。これを抜くのは相手が油断して隙を見せた一瞬だけ。それ以外は効果が無いどころか下手をすれば殺される。
和人が伝授したのは単純なことだった。
『相手の隙を見て一発だけ撃て。狙うのは足だ。その後は当たっても当たらなくても走れ、逃げろ。お前にできるのはそれだけだ』
頭の中でその言葉を反芻していた。一瞬の隙、それを正確に判断し一発で勝負しなければならない。当たらなくてもいいとは言っていたが、この化け物相手には当てなければ生存確率はグッと下がるだろう。それでは逃げ切れない。
「俺は、アンタ達のことなんて覚えてない。どういう関係か知らねえけど連れ帰ったってなんにもなんねえぜ」
「ぶっちゃけアンタはどうでもいいのよ。必要なのはその中身」
「お前が返してくれるなら俺達も荒っぽいことはしない。だが、その様子じゃ取り出せもしないって感じだろ?」
男は両手にダガーを握り、いよいよ臨戦態勢に入る。同様ヴィクセンもナイフを携え、いつでも八つ裂きにできるよう狙いを定めていた。
「緑。三、二、一のカウントで真横に走れ。何があっても立ち止まるなよ」
二人に聞こえないようそっと耳打ちをして即座にカウントを開始する。三、二、一……走り出した緑を追うように迫るヴィクセン。隼人は意識が緑へと集中したその瞬間を見逃さなかった。銃声は二発。一発目は緑へナイフを投げようとするヴィクセンの足へ。もう一発はその異変に気付いた男の足元へと牽制の意を込めて。ほんの一瞬、怯んだ隙に隼人も後を追って走り出す。意表を突かれたヴィクセンが怒りの余りナイフを地面に叩きつけていた。
「ガッデム! 銃なんて聞いてないわよ!」
「まあ落ち着け。お前は少しカッとなりすぎる」
「あんなガキにしてやられて黙っていられるワケないでしょ?」
「見た目に捕らわれてどうする」
「女は見た目が全てなの。ほら、追うわよ! 今日はこの前みたいに雨も降っていなければ暗くもない、最高の狩り日和なんだから」
その言葉の通り二人は追い詰められていく。あまり慣れていない街外れということもあり上手く土地勘が働かず、じわじわと迫りくる脅威を背に感じていた。それでも見つかるわけにはいかないと、とにかく街中を走り回る。そうして行きついたのは街外れの教会だった。
大きな扉を開けるや否や転がり込みベンチに身を潜める。息を殺し嵐が過ぎ去るのを待つ姿は、まるで神に乞い願う信者のようだった。だが、二人は願う神を間違えた。
「聖職者相手に教会に逃げ込むとはねえ」
声と共にステンドグラスが割れ、色とりどりのガラス片が二人の頭上に降り注ぐ。窓枠に立つその姿は背に太陽を携え、ある種神々しさすら感じられた。けれどもそれは救いの神などではなく、死を司る死神。舞い降りた死の鎌が二人を襲う。
「鬼ごっこはもうお仕舞ね」
ヴィクセンとは距離が少しある。今ならまだ間に合うと出入り口の大扉を目指すも今度は逆側、ベンチ横のステンドグラスが砕けその破片が飛び散り進路を塞がれてしまう。狼狽える二人を追い詰めるようにもう一人の男が現れた。
「大人しく捕まってくれりゃなんもしねえさ」
「っ……、」
イチかバチか男の足を狙おうと懐の銃に手を伸ばすも、その行為はヴィクセンのナイフによってあっけなく阻止されてしまう。同じ手は二度通用しない。掌を正確に狙ったその一投は寸分の狂いもなく命中、隼人の手に深々とナイフが突き刺さっていた。
「ぐっ……!」
「隼人!」
抉られた肉と凶器の隙間から溢れ出る血が、地面に小さな水溜りを作っていく。滴る血とその光景に嫌悪感を覚え無理矢理ナイフを抜くと、血は更に勢いを増しドクドクとその手を赤く染めていった。
「舐めた真似してくれたお礼よ。綺麗でしょう? 乾く前の血って」
次はどこを狙おうかと品定めする手は、まるでダーツをするかのように軽く遊んでいるようだった。
前後に敵、左右には散らばったガラス片。逃げるならば男が破壊した窓しかないが、辿り着くまでにおそらく二人は捕まってしまう。女に至っては隼人を殺さんとするはずだろう。八方塞がりとはまさにこのこと。どう足掻いても逃げ道はない。せめて緑だけでも逃がせないかと画策する間にも男は二人に手を伸ばしてくる。絶体絶命、その時。
「おい、テメェら」
生を司る神は二人を見捨てなかった。
低い男の声と銃声。次の瞬間には腕と足を撃ち抜かれた男が膝をついていた。コツコツコツ、と聞こえるのは祭壇から歩いてくる足音。新手かと振り返ったヴィクセンだったが、銃声の主の方がコンマ数秒反応が早く男同様、足を撃たれ膝をつく。
「ここを神域とわかってやってんだろうな」
二人の前に現れたのは漆黒のカソックに身を包んだ神父。その手には聖職者とは縁遠い人殺しの道具、銃が握られ、あらぬ言葉遣いをする口には煙草が咥えられていた。まるで殺し屋のような男、それが第一印象だった。
反撃を試みるヴィクセンだったがその隙は与えられず、ナイフを掴もうとした手、肩、腹と次々に撃ち抜かれていく。
「くっ、ヴィクセン……!」
男は負傷した足を庇いながら女を助けようとするも、もちろんそれは阻まれ銃弾が再び足に撃ち込まれる。呻き声をあげうずくまる男だったが、次に顔を上げたその口には小さな水晶が咥えられていた。それは何色もの色を映し、禍々しい雰囲気と奇妙な存在感を放つ。男はなんとその水晶を噛み砕き、破片一つ残さず飲み込んでは動かすのもやっとな腕を横に伸ばして一言、隼人や緑にはよくわからない言語の言葉を呟いた。
「っはあ、一時撤退だ、ヴィクセン!」
男の声と同時にヴィクセンの足元に禍々しいナニカが広がり彼女を呑み込む。その様子を見ていた神父は小さく舌打ちをしたかと思えばカソックを翻し背を向けた。
「消えろ。見逃してやる」
姿が消えたヴィクセンに続き、男もナニカに身を委ね跡形もなく教会から消え去る。大きく口を開いていた深淵も直後にその口を閉じ、まるで何事もなかったかのように教会の床に戻っていた。
一連のやり取りをただ眺めることしかできなかった隼人と緑。茫然と立ち尽くし何が起こったのか理解できずにいると、背を向けていた神父が二人を見据え口を開く。
「テメェらも消えろ」
恐ろしく冷めた目でそう言い放ち、祭壇の奥へと消えていった。
神父《Two_Fathers》
あの後二人は言われるがまま教会を後にした。なるべく街行く人にボロボロの姿を見られないよう裏路地を通り帰路につく。帰り道、二人は一言も話さなかった。拳の血は止まらないし頭の整理もつかない。緑もそんな隼人の雰囲気を感じ取ったのだろう、話しかけることはなかった。
家に着いたのはもうすっかり日も沈んだ頃。部屋の中には月明かりが射し込み薄っすらと室内を照らしていた。隼人は電気をつけることもなく棚から救急箱を取り出し、血塗れの手を消毒。液が傷に染みるようで時折小さい唸り声が聞こえていた。その間、緑は何をするわけでもなくただ立ち尽くすだけ。
二人は思い知ったのだ。己の無力さを、相手との決定的な力の差を。隼人はわかっていたつもりだった。だから和人に教えを乞うた時、殺すことではなく生き延びることを教わるのになんの抵抗もなく、寧ろそれが最善だと思っていた。けれど実戦では一回は通用したものの、あの神父の助けが無ければ今頃隼人は殺され緑は連れ去られていた。考えが甘かったのだ。まざまざと突きつけられた現実が二人の希望をこれでもかという程粉々に砕いた。
「ごめんな、隼人」
その言葉はあまりにも深く隼人に突き刺さった。
自分では守ることも、傷ついた心を癒すこともできない。悔しかった。悔しくて、だから少しでも強くなれるように、今何が起こっているのかを知るために、再び隼人は教会へと足を運んだ。
唯一の出入り口である大扉はまるで隼人を拒むかのように固く閉ざされていた。騒ぐ心音を鎮め重たい扉に手をかけると、軋む音と共に聖堂が視界いっぱいに広がる。散らばったガラス片と破壊された窓がそのままにされていた。
聖堂の奥に目をやると祭壇近くのベンチに一人、煙草をふかし腰掛ける神父の姿。扉が開いた音で来客に気付いたのかこちらを一瞥した後、至極つまらなさそうに煙を吐き再び虚空へと視線を戻した。まるで隼人の存在などなかったかのように神父の時は流れていく。その圧倒的な存在感に一瞬口を開くのを躊躇うが、目の前の畏怖よりも守りたいものが隼人にはあった。
「教会、滅茶苦茶にしてすいません」
「…………」
返事はなかった。興味が無いのか、はたまた聞こえていないフリをしているのか。
「どうしてあの時、逃がしたんですか」
祭壇の奥、月光に照らされる十字架がやけに鮮明に見えた。磔にされたあの男性は、宗教の知識が無い隼人でもよく知っている。一歩踏み出すと、身廊に散らばるガラス片がパキパキと音を立てた。
「その理由をどうしてお前に教える義理がある」
振り返る灰の目は隼人を捉え、そして睨んだ。たったそれだけの行為なのに体が動かなくなる、気圧されてしまう。その様子に神父は呆れ煙草を咥え直し立ち上がる。あの時と同じ酷く冷めた目で隼人を蔑んでいた。
「帰れ」
話す余地はないことを物語る瞳。けれど一歩も引くことはできない。平行線の二人の静寂を破ったのは聖堂の片隅に置かれたパイプオルガンだった。
美しい旋律は薄闇を彩り、その場にいる全ての人間に等しく神の福音を授ける。
「うん、いい音色だ。ちゃんと手入れをしているんだね」
福音の担い手は天使のような白銀を纏い、美しく儚かった。白鍵をなぞる手は細く長く、そして繊細。ゆらりと立ち上がる姿は今にも霞みそうだというのに、その足取りにはどこかしっかりとした芯を感じられた。
「初めまして、エウスタリヌス。いや、今は一条誠司、かな?」
「……誰だ、テメェ」
薄い唇に浮かぶ微笑みは神父だけに向けられていた。一方その当人は瞳に明確な敵意を宿し青年を睨みつけている。
「ニコラス、と言えばわかるよね。かつて教会に所属していた君なら」
「貴様……」
神父の殺意が一気に跳ね上がり、今にも殺さんと銃を構える。だがニコラスと名乗った青年はそんな殺意を軽くあしらうかのように笑い、身廊を出口に向かって歩いていく。扉の近くにいた隼人も警戒し身構えるが、そんな些事など意にも介さずその横を通り過ぎた。
「大丈夫。今日、僕は君に用はないから」
その言葉は隼人に敵意が無いと示しているはずなのに、足が少しも動かない。圧倒的な力の差なんてものじゃない、彼は絶対的支配者。あの言葉もどこまでが本当なのかわからない。今は黙っているから、彼に害がないから生きているだけで少しでも口を出したり動こうものならきっと殺されてしまう、そんなビジョンばかりが浮んだ。
「僕の仲間がね、教えてくれたんだ。恐ろしく強い神父がいたって。まさかとは思ったけど、こんなところに飛ばされていたとはね……フフ、とんだ土産物だよ」
「クソ、次から次へと厄介ごとを持ち込みやがって」
咥えていた煙草を手の平で握り潰し地面へ叩きつける。隼人を挟んで睨み合う二人。そして次の瞬間には空で交わり激しい応酬を繰り広げていた。神父の放つ銃弾を短剣で軽くいなし、その刀身を銃身に叩きつけ空いたボディに蹴りを食らわす。細見から繰り出されたとは思えない威力の蹴りで神父を床に叩きつけようとするが、こちらも化け物なのか叩きつけられる直前に受け身の体勢を取り、そこから瞬時に反撃へと転じた。力の差は拮抗。この永遠に続くかと思われた時間は神父の弾切れによって幕を閉じた。
「あーあ、弾切れか。それにしてもどうして実弾なんて使っているんだい? 君の力ならリロードなしの銃を、」
「うるせえよ。こちとらテメェらにその称号を剥奪されたんだ。使うこともあるめぇよ」
「それでも神は君を見放さなかった」
「神なんていやしねえ」
「その点においては僕と君はよく似てるんだけどね。でも、神は存在する」
「意味わかんねえこと言ってんじゃねえぞ」
これ以上の会話は無駄だと、そう告げる神父。有無も言わさぬその威圧感にニコラスは諦めたのか、短剣を手放し両手をひらひらと降った。
「怖いね、戦闘の守護聖人サンは」
パン、と乾いた音が響く。ニコラスの頬には一筋の掠り傷がついていた。
「消えろ。まだくだらねえこと話すってんなら、次は本気で殺す」
いつの間にかリロードされたその銃身を、今度は確かに殺そうと正確に照準を合わせる。確証はないが、神父は必ず撃ち殺すだろう。
「フフ、悪ふざけが過ぎたね。これじゃ君も参加せざるおえなくなる。まあ今日は帰るよ、十分楽しめたしね」
ニコリと微笑む白銀は大扉を軽々と開け去っていった。最後に「君のお楽しみはこれからだよ」と隼人に言い残し。
また何もできなかった。覚悟してきたはずなのに、いや、「はずなのに」という言葉がその覚悟の甘さを表している。圧倒的な力の前ではただの人間ができることなどたかが知れている。少なくとも、あんな化け物同士の戦いにおいては当然の、生きるための選択だった。だがその選択すらも蔑むように神父は銃口を隼人へ向ける。
「殺される覚悟もねえようなら、二度と俺の前に現れるな」
突きつけられたソレは威嚇などではなく、相手を殺すために向けられていた。
結局何も掴めぬまま教会を出た隼人だったが、すぐにニコラスの言葉を思い出すことになる。
「よう、おひさ! オレのこと覚えてる?」
「やっほーオマケ! ぶち抜かれたとこもう塞がった?」
隼人を待ち伏せていたかのように迎えたのは、まだ緑の意識がはっきりとしていない時に現れたあの男とピンク髪の少女、ダンサー。そして声は発していないが上空にも少年のような出で立ちの少年が一人浮かんでいた。
ニコラスの言葉が頭をよぎる。
──今日、僕は君に用はないから。
──君のお楽しみはこれからだよ。
よくよく考えればわかることだったのかもしれない。だが、時既に遅し。どんな絶望にも底はない。
本命《Awakening》
久々に悪夢に魘された。隼人に緑という名前を貰って以来ほとんど見ることもなく、多少魘されたとしても内容まで覚えていることはなかったのに。それが何故か今日は鮮明に、その全てを記憶していた。
時刻は午後十一時過ぎ。滝のように流れる汗が緑を現実に引き戻した。あまりにも気味の悪い夢で脂汗が止まらない。こういう時はいつもこっそりと隼人の寝顔を盗み見る。よくわからないが、あの顔を見るだけで少し心が落ち着くのだ。
緑が寝ている居間の隣で隼人は寝ている。そっと戸を引き顔を覗かせるとそこにはいつもの寝顔が、なかった。
「隼人……?」
嫌な予感がした。とても、嫌な予感。それは珍しく悪夢を見たからとかそんな凡庸な理由ではなく、緑の中のナニカが告げる直感。急いで家の中を確認するも隼人の姿はなかった。
なんとなく、なんとなくだが行く宛てはある。ただそれだけに賭けて緑は走った。どうか間に合ってくれと、信じてもいない神に願いながら。しかしやはり信じていないものに願いは届かない。人通りの少ない路地裏で二人は再会した。
それはあまりにも惨い再会。胸倉を掴まれ壁に押し付けられた隼人の姿。やっと塞がり始めていた傷口は一体どうしたらそうなるのか、抉られ絶えず血が溢れ出し、力が入らない腕はダラリと地面に向かって伸びていた。微かに聞こえる呼吸も弱弱しく、意識があるのかすらわからない。
「ん? おっと、これは想定外のお客さんだ」
男の笑みに全身の血の気が引いていくのを感じた。自身を支配する感情はただ一つ、怒り。緑は何かの箍が外れたかのように叫び男へと殴り掛かるも単純な力勝負では敵うはずもなく、渾身の拳はいとも簡単に躱され逆に強烈な一撃をお見舞いされてしまった。向かいの壁まで吹き飛び背を強打、そのまま意識を失う。
「背骨折れちゃったんじゃないのお?」
心配して緑を覗き込むダンサーだったが、そこである異変に気付き距離を取る。意識のないはずの体が跳ね、ゆっくりと顔を覗かせた。その表情に人間らしい理性はなく、瞳の色も深い緑だったものが緋色に覆われかけていた。
「まさか……!」
「ルドルフが、起きた」
ずっと空にいた少年がダンサーの近くまで降り立ち、そう告げる。ルドルフ、それが彼らの求める中身。
「んん、なんか雰囲気違くねェか」
ゆらりと立ち上がる影は浅屋緑の面影など欠片も残していなかった。それどころか人の体裁すら捨て、最早言語ではない獣の呻き声を上げる。
「おいおい、コイツ本当にルドルフか……?」
「マズイ、くる」
何かを察知した少年がいち早く二人を守るように透明の壁、防護壁を展開するも獣の咆哮と共に破られ、その勢いのままに喉も食い千切られる。まるで紙切れのように、いとも簡単に裂ける人肉と鮮血のシャワー。目の前で起きたことに理解が追い付かないまま突っ立つダンサーを男は蹴り飛ばし、バケモノの一撃を辛うじて受け止める。
「げほっ、ちょっと! 何すんのよプランサー!」
「っ、クソ……ボケっとしてんな! はぁっ、やられるぞ!」
鮮やかな赤を被り恍惚の笑みを浮かべるその様子はまさに狂気そのもの。一瞬で身を引きその様子を観察していると、手には先程食い千切った少年の目玉がくり抜かれていた。それを片手で弄び、口で転がし、最後には飽きて噛み潰す。その一連の動作はまるで積み木で遊ぶ子供のようで、ある意味無邪気とも言えた。
バケモノは次のおもちゃを探し、そこで目の前にいた二人にじいっと照準を合わせる。見開かれた瞳孔に映るのは、ダンサー。
「っ、ダンサー!」
プランサーが手を伸ばすよりも早く、少女の目の前に現れる厄災。せめてもの抵抗とばかりに零距離射撃を試みるも銃身はビスケットのように噛み砕かれ意味を成さない。遂には飽きてしまったのかゴミを捨てるように、あっさりと少女の体を切り裂いてしまった。あまりにも無慈悲かつ圧倒的な力。
「どう、なってんだよ」
こんなイレギュラーは聞いていなかった。中身が違うかと思えば仲間はあっけなく、あまりにもあっけなく死んでいく。残されたプランサー自身も後何分生きていられるのかわからない。どうしてこんなことになったのか、考えている間にも血塗れの悪魔は歩み寄ってくる。今度は楽しませてくれるのだろうか、そんな期待を瞳に浮かべながら。
「み、ど……り、」
バケモノの奥に眠る人間を目覚めさせたのは隼人の声だった。浅屋緑という存在を形作る一つのファクター、それがある限り緑の存在が消えることはない。
「Grr……グ、ア……?」
地面に横たわる男に、見覚えが、ある。自分の名前を呼ぶ者──自分、とは。
バケモノ自身が浅屋緑を認識した時、それは何かと戦うように呻き声を上げ地面に這いつくばっていた。知るはずのない男の声に体の奥底が揺さぶられる、魂を書き換えられる。鬱陶しい、消してしまいたい、殺す、殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺。
「……っ、帰ろ、う。俺達の……家、に」
ミドリと呟く口。それは隼人、そう浅屋隼人のもので、どうして大切な、世界でたった一人の彼を殺そうとしたのか、涙を流したバケモノはそっと眠りについた。
薄れゆく意識の中で隼人は涙をそっと拭い、意識を失った。
疑念《Doubt》
バケモノから痛い一撃を食らってたプランサーは、あの後少年を回収することもできずに帰投した。大きな広間の一角に体を預け先程の情報を整理する。
あのバケモノ、あれはプランサーや他の仲間が知るルドルフではなかった。あれは一体なんだったのか。
かつてここにいたルドルフという少年は気弱で臆病、争い事を好まない性格だった。いつも周りの様子を窺っては他人優先で動き、ある種自己犠牲ともとれる行動ばかり。だがそれは裏を返せば人一倍優しく、みんなに好かれる存在ということだった。
『プランサーは、喧嘩が好きなの?』
そう問いかけてきた顔は今でも忘れない。あれはニコラスの命で他所の町一つを丸々潰してきた時のこと。ボロボロで帰ってきたプランサーをルドルフが治療してくれたのだ。
『ま、嫌いではねェな。ただ、これがオレの役割だからさ……好きになる努力ってのは必要だろ?』
『自分の、役割』
『ああ。オレ達には力がある。それぞれ与えられた力が。そんで、それを買われて今ここに居る。お前もそうだろ?』
『ぼくは、わからない。気付いたらコメットがいて、みんながいて、ニコラスさんがいて。だから、みんなに出会ってからがぼくの人生の始まりだった』
ない過去を悲しむわけでもなく、そう淡々と告げる少年はプランサー達のいる世界とは程遠い、血を見ることのない世界の人間だった。どうして仲間になったのかは誰も知らない。けれど今は確かに仲間で、プランサーにとっては大切な家族のような存在だった。
「どうして、こうなっちまったかなァ……」
確かに絆はあったのに、あんなにもあっけなく殺された二人を思い出すとやるせない気持ちで、時の流れも忘れて愕然としてしまう。
「随分遅かったね、プランサー」
広間の奥からやってきたのはニコラスだった。
「すんません、このザマです」
自身の醜態を恥ずることなく打ち明けると、血で汚れた顔や手を拭けるようにそっとタオルが差し出された。有難く受け取りこびりついた血を拭う。
「アイツ、何なんですか」
「黒髪の青年クンかい?」
「ハハ、こんな時に意地悪は勘弁してくださいよ。結構キてるんスから」
「ああ、ごめんごめん。ルドルフだよね」
「あれ、本当に中身はルドルフなんですか」
「間違いないよ。コメットもキューピッドもそう言ったんだ」
コメットとキューピッド、彼らは探知系の能力を有していた。その精度は組織内随一で外れたことはない。
「だとしたら……あれは、一体」
「僕も詳しくは視れてないんだ。教えてくれるかい?」
そう言われ、ありのまま起こったことを話す。話を聞いている間、終始ニコラスは笑顔だったがよく見ると最後の方は全く目が笑っていなかった。
「へえ……そうか、彼はまるでバケモノだったんだね」
見開かれた銀の瞳は偽りがないか今一度、念を押すようにプランサーに問うた。もちろん嘘をつく理由が無い彼は確かにそうだったと頷きゆっくりと立ち上がる。
「ちょっと疲れたんで、休んできますね。なんか用あれば部屋にいるんで」
「ああそうするといい。ゆっくりおやすみ、プランサー」
「はいよ。おやすみなさい、ニコラスさん」
大広間を後にしたプランサーは一つ確証を得た。これはただの連れ戻しではなく裏があり、あのバケモノ次第でこの計画の根幹が揺らぐかもしれないということを。だが、わかったところで自分のやることに変わりはない。ニコラスが望むことがプランサーにとっての全てなのだ。
殺す覚悟《Prepared_to_be_killed》
朝陽の眩しさに目が覚める隼人。どうして寝る時にカーテンを閉めなかったのか、前日の自分に悪態をつき起き上がったところで体の異変に気が付く。
「っ……」
やっと塞がりかけていた傷口を無理矢理抉られ、更に他の箇所までズタボロにされたのだ。本来なら指一本すら動かせないはずだった。だがそんな男の体を動かすのはたった一つの理由があるから。
「緑、」
意識を失う前、確かにそこには緑がいた。この手で拭った涙の温かさを僅かながらに覚えている。だから尚のこと大きな不安が隼人を襲う。悲鳴を上げる体に鞭打ちベッドから起き上がると、その足元にはもう一組の布団。傷だらけの緑が寝ていた。すうすうと寝息を立て、そこに生きていることを報せている。
「はー……」
吐き出そうになる臓物を必死に押し留め、規則的に上下する布団に項垂れる。ゆっくりとした心臓の音が聞こえた。ドクン、ドクンと血が巡る音。子はこの音で安心すると言うが、そういうことなのかもしれない。
隼人は自分がどうしてここまで彼を守ろうとするのか全くわかっていなかった。理性では人助けや放っておけないというありふれた理由ばかりが浮かぶ。でもそれは建前で、どうにも自分自身はっきりとは理解できていないようだった。ただ一つあるのは、緑の苦しむ顔や辛そうな顔をみたくない、唯一それだけが確かに男を動かす原動力となっていた。
幾分か冷静になった頭で、ようやく他のことに思考を割けるようになった隼人はここが圭輔の家だと気付く。居間を覗き見るとソファに寝そべる圭輔がいた。掛け時計を見ると時刻は午前七時。おそらく新聞配達のバイトが終わって寝ているのだろう。起こすのも悪いと思ったのと、それ以上に事の顛末を話したくなかったということもあり、二人を寝かせたまま姿を消した。隼人が向かった先は、再びあの教会。
このままでは二人とも死ぬ。それはわかりきっていた。だが緑が涙を流すような、あんな姿を見るぐらいなら、自分の無力さで何も救えないのなら。既に、やらなければならないことはわかっていた。
「人の殺し方を教えてください」
三度目の正直、という言葉がある。まさしく今がその状況だった。銃口を突きつけられるのはこれで三度目。もう後も先もない。
「言ったはずだ、二度と俺の前に現れるなと」
「はい。覚悟が無いなら来るなと」
「殺されに来たのか」
撃鉄を起こし狙いを定める。この神父に冗談など存在しない。殺すと言ったら殺す、そういう人間だろう。
「そうです。でも、違います」
内ポケットから取り出した拳銃には残り一発の弾丸。これを外せばもう己の身を守る物は何もなくなる。構えた手は僅かにも震えることなく神父に狙いを定めた。
「相打ちはド三流の考えることだ」
「俺は、死にません。貴方も死なない」
「この引き金を引けばお前は死ぬ」
いとも簡単に人間は死ぬ。ある日突然交通事故にあったり、突発的な病にかかったり、無差別に殺されたり。或いは、銃で脳幹を撃ち抜かれたり。それは瑞々しい野菜を包丁で切るかのようにすとんと、呆気ない。
「死ぬ覚悟が無い人間に生き抜くことはできない。だから、」
聖堂に響き渡る銃声。二発目はない。だた一つ、ゴトンと音がした。
「貴方は絶対、この銃弾に当たらない」
地面に倒れたのは神父の後ろ、祭壇にある十字架だった。
神父は構えていた銃を降ろし弾痕のついた十字架を拾う。その背からは感情が読み取れない。
「……半殺しは覚悟しろ」
「殺さないんですか」
「それはテメェ次第だ。お前がその気になってやっと半殺し、一瞬でも気を抜けば殺してやるよ」
確証はなかった。それでも進まなければ待つのは死だけ。隼人は、賭けに勝った。
「よろしく、お願いします」
深々と頭を下げるも返ってきたのは靴の音。顔を上げると神父は既に祭壇奥の扉前に立っていた。
「おら、とっとと来い雑魚が」
「浅屋隼人です」
「何だ」
「名前、名乗らないとずっとそう呼ばれそうなので」
「名乗ったところで変わらねえよ」
「何て呼べばいいですか」
「……お前、面倒だな」
案外人の話を聞かない隼人に呆れた神父は踵を返し地下へと降りていく。早くついて来いと再び視線を寄こした。
「一条誠司だ。好きに呼べ」
階段を降り、とある一室に入る二人。剥き出しのコンクリートを数多くの蝋燭やランタンが仄明るく照らしていた。
「まずいくつかテメェに質問がある」
部屋の奥にある小さな椅子とも呼べない箱馬に腰を掛け煙草を吹かす。
「奴らはなんだ」
「何……?」
「戦いは力もそうだが必要なのは何より情報だ。これが頭にねえ馬鹿はここぞという局面で死ぬ」
一条の言葉一つ一つには不思議と重みがあった。幾億の戦場で戦い、生き抜いた男。彼は神父であって戦士ではない。だが隼人を錯覚させるほどの言霊が彼にはあった。
「だからこれは、俺からの最初で最後の餞別だ。アイツらの正体、その情報をくれてやる」
「知って、」
「この先、温情も慈悲もなにもねぇ世界にテメェは足を突っ込む。帰っちゃ来られねえからな」
何が面白いのかクツクツ笑い、煙草を床に投げ捨て火を踏み消す。この部屋、よく見ればそこかしこに煙草の焦げ跡のようなものが見受けられた。
「アイツらは俺と同じ人間だ」
「同じ……?」
「力を持った人間。具体的な名前にすると教会の言葉で『守護聖人』と呼ばれる者にあたる。コイツらは皆なにかしらの力を与えられ、使命を背負ってる。その使命は様々だが概ねは人類の為、とされてはいるな」
あまりにも飛躍した話に理解が追い付かない。力を持った人間、守護聖人、そしてその使命。漫画で言えば設定のようなその話はあまりにも現実離れしていた。
「ピンときてねえようだが見ただろ、あの力を」
冷静に思い起こしてみれば、出会った敵と呼ぶべき者たちは全員人間離れした身体能力を有していた。じわじわと現実味を帯びてくる話に鳥肌が立つ。そして一つの事実に辿り着いた隼人は震え始めた手を押さえずにはいられなかった。
「一条さんも、同じってことは」
「言っただろ、そうだって。ただまあ、俺は蚊帳の外の人間だがな」
「それってどういう」
隼人の質問よりも先にスマホの着信音が鳴り響く。不機嫌そうに睨む一条を余所に確認すると、画面には田畑圭輔の四文字。何も言わないで出てきたことを思い出してしまった。一条は不味そうな雰囲気を察したのか二本目の煙草に口を付け待ってくれているようだった。
「もしもし、」
『お前今どこにいる!』
いつものエセ関西弁も抜けきった完全な標準語。予想外の怒声に困惑が隠せず曖昧な返事で応えてしまった。
『ボロボロのクセにどこほっつき歩いてんだよ!』
「あぁ、圭輔」
親しい友の声に先程までの言い得ぬ感情が和らぐのを感じていた。自分のよく知る世界、この先とは真逆の優しい世界。そこに置き去りにした大切な少年の顔が浮かんだ。
『聞いてんのか!』
「聞いてる……悪い。緑は」
『まだ寝てる。お前と違ってちっとも目覚まさねえよ』
「そう、か」
ある種、好都合とも言えた。目覚めない限りは探されることもなければ、これから何をしようと止められることもない。緑の制止を振り切るのが何よりの苦痛である隼人にとって今が正にチャンスなのだ。
『ハヤト、お前、ほんとに何してんだよ……あんなズタボロで、みどチャンもこんなで、』
圭輔の心配する声が耳に痛い。グッと握り締めたスマホをいつの間にか横にいた一条に奪い取られてしまった。
「コイツは俺が預かってる。安心しろ、保護してやった。ガキが目ェ覚めたらそう伝えとけ」
『は? ちょ、アンタ──』
一方的に話したかと思えば用が済んだとばかりに通話を終わらせ、スマホを投げ返し三本目に火を着ける。
「集中しろ。死にたくなければな」
言葉遣いこそ乱雑だがその裏を読めば案外、一条誠司という人間は優しいのかもしれない。
「一条さん、話の続きなんですけど」
「タイムリミットだ。それに必要なことは話しただろ」
「まだ聞きたいことが」
「言ったはずだ。慈悲も温情もねえ世界だと」
銃弾が頬を掠めたところで認識の間違いを思い知る。彼は優しさなどという、こちら側の人間の物差しで生きてはいないと言う事に。二人の世界を分かつ境界線を越え、隼人は渡された銃弾を装填した。